五旬節の日以降に、急速に成長していた弟子たちの群れは、「すべての民に好意を持たれた」(2:47)と記されているように、多くの人々の強い関心の的となっていた。実際に「使徒たちによって多くの不思議としるしが行われた」からである。その一例が、3章1節以下の「美しの門」の前で起こった出来事である。生まれつき足のなえた男の人がいて、その人の足が強くされ、立ち上がって歩き出した奇蹟である。
1、五旬節から、どれ程の日数が経過していたかは不明である。ペテロとヨハネが「午後三時の祈りの時間に宮に上って行った」時のこと、「生まれつき足のなえた人が運ばれて来た。」(1〜2節)この人は、宮に来た人々から施しを受け、それで生活をするため、心ある人々に助けられ、「毎日『美しの門』という名の宮の門に置いてもらっていた。」来る日も来る日も、人の手を借りなければそこに行けず、とても辛い人生を送っていた、そのような人である。その彼が、最近、イエスの名を聞く機会があったのかもしれない。イエスをキリストと信じる信仰のことを、目の前を通る人々の話声から、幾らか聞きかじることになっていたかもしれない。実際に、弟子たちが、毎日、宮に集まっている様子を見てもいたであろう。弟子たちが、持ち物を共有して、互いに助け合っていることも、情報として知っていたかもしれい。しかし、それは別としても、たまたまペテロとヨハネが目の前を通り過ぎようとし、彼は二人に、施しを求めたのである。二人は彼を見つめ、「私たちを見なさい」と言ったので、彼は「何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ。」(3〜4節)真剣な眼差しが交錯する瞬間である。(※「美しの門」:宮の東側の「異邦人の門」から、更に内側の「婦人の門」に通じる門、ヘロデが金や銀、真鍮できらびやかに飾った門で、礼拝者の多くがそこを通る場所であった。)
2、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」ペテロはそう言って、「彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼のくるぶしが強くなり、おどり上がってまっすぐに立ち、歩き出した。・・・」(5〜8節)ペテロが、イエスの名を信じて、立ち上がるよう手を差し出したのに対して、彼が応じた時、たちまち立ち上がって、歩くだけでなく、跳ねたり、大喜びで神を賛美し、二人について宮に入って行った。人々の驚きは大きかった。信じられないこと、考えられないことと思いながら、間違いなく「美しの門」に座っていた男であると、認めないわけにいかなかった。(9〜10節)騒ぎは一層大きくなり、人々がペテロたちのいた「ソロモンの廊という回廊」に、いっせいに集まって来た。そこでペテロが語り始めた。五旬節の日と同じように、人々が目の前の現象に驚いている様子を受け止めつつ、これは、生ける真の神の御業であること、正確には、十字架で死なれたイエスをよみがえらせた神が、この御業を成していると、力強く語った。「しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。私たちはそのことの証人です。そして、このイエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、あなたがたがいま見ており知っているこの人を強くしたのです。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの目の前で完全なからだにしたのです。」(11〜16節)
3、ペテロは、人々に向かって、イエスを十字架に付けた事実を突き付けながら、それは結局、無知ゆえの失敗であり、しかし、神はそのことも織り込み済みとしておられたと言う。そして、今すべきことは、罪を悔い改め、神に立ち返ることと迫った。「あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。」(17〜19節)主イエスが十字架で死なれ、よみがえってキリストとして全ての人の前に立って下さることは、神の大きな救いのご計画であること、旧約聖書で告げられていたことは、このイエス・キリストのことであって、神はこの方によって、あなたがたを祝福し、一人一人を罪に縛られた邪悪な生活から、神の前に立ち返って、幸いな日を過ごす者になるよう、待っておられることであると説いたのである。神は、旧約聖書の時代には、モーセによって語り、またサムエルを始めとする預言者たちを通して語り、イエスをキリストと信じる者を、アブラハムの子孫として祝福して下さることを、人々に約束されていた。この救いのご計画は、全く変わらないものである。この日も、ペテロの語る勧めに、かなりの数の人々が心を動かされていた。(20〜26節)
<結び> この出来事のハイライトは、やはり「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」との勧めに、男の人が応えて、立ち上がったことである。手を取られ、促されしてであったが、自ら立とうとし、遂に立ち上がって、歩き出すことができた。これは自分たちの力や、信仰深さにはよらず、「イエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、あなたがたがいま見ており知っているこの人を強くしたのです」と、ペテロが言い切っている通り、生ける神ご自身の御業であった。神であるイエスご自身が、その全能の力を働かせ、イエスを信じる人を立たせて下さったのである。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ11:28)と言われ、また「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます」(ヨハネ10:11)、「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」(ヨハネ11:25)と言われた主イエスが、十字架の死からよみがえって、ずっと生きて働いておられるからである。
但し、同じような奇蹟が、教会の歴史の中で、いつも起こるわけではない。けれども、「イエスの御名によって歩きなさい」との勧め、また促しは、私たちの信仰生活のあらゆる事柄に関しても、とても大切な意味を持っている。神を信じて立ち上がるべき時、事柄、いろいろなことに当てはまるからである。ペテロに手を引かれた男の人は、信仰について、まだ多くは知らなかったかもしれない。ナザレのイエスについて、よくは知らなかったであろう。しかし、彼は信じて、立ち上がって、癒された時、はねたり、神を賛美しつつ、ペテロたちについて行った。それまで心沈んでいた者が、神を賛美する者となった。そのようにして、自分の身に起こったこと、神が自分にして下さったことを人々に知らせていた。彼もまた、復活の証人として歩み始めていたのである。私たちも、イエスの御名を信じる信仰に生き、神にあって強くされて生きている証人であることを、感謝をもって証しできるよう、心から祈りたい。
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