五旬節の日(ペンテコステ)に、聖霊を注がれ、力を受けて語り出した弟子たちの言葉に、多くの人々が応答した。それで、弟子たちの群れは、短期間の間に驚くほどの集団となった。神の民としての教会が、ユダヤ人の枠を超えて、全世界に福音を宣べ伝える働きへと歩み始めたのである。彼らは、神礼拝を第一とし、復活の主を仰ぎつつ、聖霊の導きに従って歩んでいた。その一団がどのような様子であったのか、43節以下に要約されている。聖霊に導かれた弟子たち自身が、生きて働かれる神の御力に触れ、復活の主が共におられるとの信仰を強められていた。「そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって多くの不思議としるしが行われた。」(43節)
1、パンを裂くことは、やがて聖餐式として初代教会に定まることであるが、それは、エマオでの経験を思い出してする行為であった。十字架を覚えながら、復活の主が、今ここにおられるとの喜びに包まれ、神のご臨在を強く覚える時である。(ルカ24:30-31、35)目には見えなくても、主イエスがここにおられるとの確信は、神への恐れを心に生じさせ、使徒たちによって、彼らの知恵や力にはよらない、多くの不思議やしるしが行われた。彼ら自身が驚くことが、実際に起こった。それはペンテコステの日の一時的な出来事に終わらないで、継続的に、また持続的に起こっていた。(「生じ」「行われた」:いずれも未完了形であり、事が継続していること表している。)そのような状況の中で、弟子たちの生活は大きく変化していた。主と共に歩み、旅をしながらの生活から、エルサレムの宮に集うことが中心となり、信者となった者たちを交えて、「みないっしょにいて、いっさいの物を共有していた」と言われる生活、いわゆる共同体を成す生活をするようになっていた。実際の日々の必要は、「そして、資産や持ち物を売り払っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた」のである。(44〜45節)
2、イエスをキリストと信じた人々は、実際の生活が大きく変化した。彼らは、物に対する考え方、お金に関する意識を変えられ、生まれ変わった者として生きようとしていたのである。初代教会の人々は、理想的な原始共産制の共同体を形成していた・・・と、そのように言われることがある。現代の教会も見習うべき・・・とまで。けれども、確かに理想的な交わりの姿があったとしても、それは、その時のエルサレムでの教会の事情であり、聖霊がそのように教会を導かれたと理解すべきである。その後も教会は成長し、課題が増え、その都度、課題を克服しながら歩み続けているからである。但し、自分の所有欲に縛られず、互いの必要のためにささげ尽くそうとした心遣いは、真に尊いものである。それは神を第一とする信仰によるもので、人のいのちを支配する方は、生ける真の神のみであり、この神に依り頼む信仰が生きて働いていたことによる。彼らの信仰が、決して中途半端なものではなく、徹底していたことを物語っている。(マタイ6:31-34)
3、そのような弟子たちの姿、教会に連なった人々の様子は、次のように記されている。「そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。」(46〜47節)彼らは、毎日「宮に集まり」、公に礼拝をしていた。それぞれの生活をしつつ、心を一つにする集まりを大切にしていた。家々で「パンを裂き」、十字架と復活の主を仰ぎ、食事を共にする交わりを心から喜んだ。その交わりは神への賛美と祈りをささげる、喜びの時であった。そのような信者たちの姿は、「すべての民に好意を持たれた」のである。周りの人々の中には、まだまだ警戒する人がいたに違いない時期である。けれども、実際には、好意を持って見ていた人々が大勢いた。それは驚くべきことである。神を信じ、イエスをキリストと信じて、喜びに溢れている教会の姿が、人々の目に留まっていた。神にあって、賛美や感謝に満ちている姿が、自分もその群れに加わりたという思いを、はっきりと人々に待たせるまで届いていたことになる。こうして「主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった」のである。使徒たちの他、多くの弟子たちがいて、彼らは、神の大きな御業が日々成されるのを見て、益々、神を賛美し、神に仕える思いを熱くされていたのである。
<結び> 「すべての民に好意を待たれた」との記述が、気になって仕方がない。ユダヤ人の社会の中にあって、主イエスは十字架に付けられる前、かなり熱狂的な歓迎を受けてエルサレムに入城しておられた。ところが、その熱狂は瞬く間に冷めてしまい、十字架刑に処せられてしまった。復活された主イエスが弟子たちを励まし、彼らを復活の証人として送り出すまで、弟子たちは、息を潜め、目立った行動を取ることなく、祈りに専念していたのである。けれども、聖霊を受けるやいなや、力強く語り始め、多くの人々が心を動かされ、悔い改めの信仰へと導かれ始めた。その勢いはすさまじく、驚くほどであった。通常、そのような集団の姿は、周りの人々の目には疑わしく見え、警戒こそされても歓迎され難い。(私自身は、熱狂的であったり、人々がこぞって向かう集団には懐疑的となってしまう。人にも、勧めたいとはなかなか思わない。)だから、初代の教会が「好意を持たれた」、その理由は何かが気になるのである。
彼らの生き生きとした信仰、神を賛美し、喜びをもって食事をしていた様子など、また互いに愛し合い、支え合い、助け合っていたその交わりの姿が、人々の心を捉えていた、と考えられる。それが大きなことであったに違いない。私たち人間が、どんなに頑張ったとしても、私たちの愛は薄っぺらで、自分本位のものでしかない。従って、何らの実を結ぶ保証もない。それで主イエスは命じておられたのである。「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」(ヨハネ13:34-35) 聖霊に導かれた時、弟子たちは、主イエスに愛された愛をもって、互いに愛し合う群れとなって歩むことができた。その愛が人々の目に留まった時、人々は好意を持って、弟子たちの交わりに加わりたいと願った。そして、主がその人々を仲間に加えて下さったのである。今日、私たちの教会の証しのカギは、そこにあると気づかされる。「福音の宣教と立証」を成そうとする、私たちの教会の務めも、主イエス・キリストの愛に満たされ、その愛の現れとなることを祈り求めたい。それなしに、前進することはできないからである。
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