「五旬節の日(ペンテコステ)」に、弟子たちが待ち望んでいた聖霊は、目に見えるしるしと、耳に聞こえる大きな物音を伴って、弟子たち一人一人の上に注がれた。「すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。」(5節)彼らは、その日エルサレムにいた人々が理解できる「ことば」、「いろいろな国のことばで神の大きなみわざを語」り始めた。(11節)ペテロは、なぜ今、このことが起こっているのか、丁寧に語り始めた。ヨエル書の預言の通り、聖霊が注がれ、だから今、私たちは語っている・・・と。そして、あなたがたに聞いて欲しいこと、それは十字架に付けられたイエスのことであり、そのイエスは死からよみがえり、キリストとして全ての人の前に立っておられる・・・と、心を込めて語るのであった。
1、ナザレ人イエスのことは、その当時エルサレムにいた人々には周知の出来事であった。力強く歩まれたその事実、「力あるわざと不思議としるし」を行ったことの記憶は、まだ人々の間で薄れていなかった。ゴルゴダの丘での十字架の光景を覚えている人々がいたのは、間違いのないことであった。「・・・神はあなたがたに、この方のあかしをされたのです。これは、あなたがた自身がご承知のことです。あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。」ペテロは、イエスの十字架の死と、死からのよみがえりを一気に語り、十字架の死からのよみがえりこそ、イエスをキリストとして立たせる神の大いなる御業であることを、詩篇の言葉を引用して力強く語った。詩人ダビデは、自分のことではなく、キリストのこと、メシヤのことを告げていたこと、そして、よみがえったイエスが、約束の聖霊を遣わし、今、ここで不思議なことが起こっている・・・と。こうして、ペテロは人々に強く決断を迫った。「神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」(22〜36節)
2、人々は、心を刺されないではいられなかった。「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか。」(37節)多くの人が、神とキリストの前に、心を動かされていた。神の圧倒的な力を知ったからである。イエスのよみがえりの事実を知って、人々は神の前に、自分はどうすべきかを考えた。神の前で罪を認め、悔い改めること、そして罪の赦しをいただくため、イエスをキリストと信じでバプテスマ(洗礼)を受け、聖霊を受けて新しい人生を踏み出すことを勧められ、自分のこととして受け止めていた。(38〜40節)ペテロが語った勧めには、「この曲がった時代から救われなさい」という促しがあった。神を退け、人が自分の力を誇る生き方は、いつの時代でも、全く「曲がった」ものである。心ある人は、そのような時代から、また生き方から抜け出すこと、救われることを、真剣に求めなければならないからである。生きておられる真の神、聖く正しい神の前にあって、私の生き方はこれでよいのか、私たちも、心の底から考えねばならない最重要事項である。(※伝道者の書12:13-14)
3、この日、ペテロが語る言葉を聞いて受け入れ、イエスをキリストと信じた者は、「三千人ほど」に達した。(41節)驚くほどの人が心を動かされ、バプテスマを受けて弟子に加えられた。イエスのよみがえりという神の圧倒的勝利とともに、弟子の増大という事実を伴って、これまた圧倒的な勢いで、イエスの十字架と復活の出来事が宣べ伝えられて行った。弟子たちは、「使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。」(42節)使徒たちの教えは、何よりも主イエスの教えである。これを堅く守ることを第一とし、主イエスが共におられることを忘れずに交わりをし、十字架の出来事を覚えてパンを裂き、そして、祈りによって神を待ち望むことを大切にしていた。それは何よりも、神礼拝を第一とすることであり、今日の教会のあるべき姿の原点がそこにあった。パンを裂く聖餐式が、今に至るまで続けられている背後には、ただ十字架の死を忘れないように・・・ではなく、主イエスが、十字架の死からよみがえられたからこそ、弟子たちがこれを大切に守り続けたという事実がある。よみがえった主にお会いし、また聖霊を注がれ、自分たちには元々ない力に押し出されて、彼らは歩み始めていたのである。
<結び> 「神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。」(32〜33節)イエスは、確かに十字架で死なれた。しかし、葬られた墓は、三日目の朝、空っぽであった。弟子たちは、その出来事をなかなか信じられなかった。けれども、「神がこのイエスをよみがえらせました」と、心から信じる者となり、その証人として歩み始めた。イエスのよみがえりの事実こそ、教会が全世界に宣べ伝えている福音の中心であり、教会は、「神の圧倒的勝利」を世に伝えるために立てられている。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」と語られた主イエスは、死からよみがえって、今も生きておられるのである。(ヨハネ11:25)
私たちは、改めて、自分もこのイエスの十字架と復活を信じたことを、はっきり心に刻みたい。週の初めの日に公の礼拝に集うのは、やはり、復活を信じるからである。聖餐式を繰り返すのも、主イエスが復活されて、弟子たちの前に現れて下さったからである。復活がなければ、彼らは絶望して、立ち上がることさえできなかったに違いない。主イエスは私たちの罪の身代わりとなって十字架で死なれ、罪の代価を支払って下さった。その死を、本当に感謝して受け止めるのに、死からのよみがえりは、どうしても必要なことであった。このよみがえりがあり、復活があって、私たちは、罪を赦され、神の子としての身分を与えられ、神の民として歩む者とされている。私たちの教会も、神の圧倒的勝利を証しする群れとなって、なおも前進させていただきたいと心から祈りたい。一人また一人と教会に加えられる人が起こされることを願って・・・。
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