礼拝説教要旨(2015.05.24) =ペンテコステ礼拝=
みなが聖霊に満たされ
(使徒の働き 2:1〜24)

 主イエスが天に上って行かれた後、弟子たちは、「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい」との命令をしっかり守っていた。彼らは120名ほどの集団となっていた。その集団のまとまりは、「みな心を合わせ、祈りに専念していた」ことによった。父なる神が何をなさるのか、どのように働かれるのかを待ち望むことにおいて、みな心を合わせ、祈ることに集中したのである。その祈りを通して導かれたことの一つが、十二使徒の補充であり、マッテヤが選ばれた。そして、「五旬節の日(ペンテコステ)」を迎えていた。主の昇天後、十日が経っていた。

1、十二使徒たちを始め、弟子たちのだれも、この日に何が起こるかは知らなかったはずである。「五旬節」は、確かに「初穂の祭り」として、「過越しの祭り」から五十日に祝う、大切な日であった。エルサレムには礼拝のため、多くの人が集まる時であり、弟子たちも特別な思いを抱いて、その日を迎えていたかもしれない。けれども、彼らは、それまでの日々と同じように、心を合わせ、祈りに専念するため、「みなが一つ所に集まっていた。」(1節)父の約束である「助け主」、「聖霊」が注がれるのを待ち望んでいた。「すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。」(2節)風の音と言えるのか言えないのか、家全体に響き渡る物音に、弟子たちは驚きに包まれた。「また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。」(3節)燃え盛る炎が降り注ぐかのように、しかも、その炎は分かれた舌の形を見せながら、弟子たちひとりひとりの上にとどまったのである。突然の現象は、そこにいた人々に聞こえ、目に見えるしるしを伴っていた。弟子たち自身が驚き、どうなるのかと戸惑いも大きかったに違いない。私たちが想像もできない位の、大きな物音がしたであろう。

2、「すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。」(4節)「風」と「炎」は、神の霊が弟子たちに注がれたことを示すしるしであった。「聖霊」を注がれた弟子たちは、聖霊に満たされ、その聖霊に導かれて、いろいろな国の言葉で話し始めた。彼らは、泊まっていた「屋上の間」で集まっていた時、聖霊を注がれ、たちまち外に繰り出して語ったのかもしれない。あるいは、その日は、朝から宮に行き、そこで礼拝をしようとしていたのかもしれなかった。どちらとも言い切れないが、激しい物音と、彼らが語る話し声は、エルサレムの人々を驚かせ、次々と、大勢の人々が弟子たちの周りに集まって来た。(5〜6節)人々の驚きは、弟子たちが、いろいろな国の「国語」を話したからである。弟子たちは、そこにいる人々がはっきりと分かる言語、「いろいろな国のことばで神の大きなみわざを語」っていた。「神の大きなみわざ」は、主イエスの「十字架の死」と「死からのよみがえり」である。彼らは「イエスの復活の証人」となって、いろいろな国の言葉で、十字架と復活の出来事を証言したのである。(7〜11節)

3、その時の様子、実際の光景を、私たちは想像できるだろうか。町中の騒々しさはいかばかりか。どれ位の数の言語が混じっていたのか。少なくても十五、六か国語と思われる。聞き分けるのは大変で、ただの騒音か、また錯乱か、はたまたぶどう酒のせいと、嘲る人もいたと記されている。(12〜13節)ペテロは使徒たちを代表して、これはお酒のせいでなく、旧約聖書に預言されている通り、神の霊、聖霊が注がれたからであって、聖霊によって語っていることを明言した。彼自身が、旧約聖書の預言が、実際に成就していることに驚いていた。その成就に気づかされたのは、聖霊の満たしによることであり、喜びと感謝をもって、人々に語り始めていたのである。(14〜21節)「終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。・・・その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。・・・しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる」と言われたことの成就として、弟子たちは、みな聖霊に満たされ、熱い心で語っていた。22節以下、ペテロが語る説教の中心は、イエスの十字架と復活である。そこに居合わせた人々が、イエスの十字架の出来事を知っていること、そして復活のことも聞かされていること、それらが前提となっている。イエスの十字架と復活をどのように受け止めるのか、信じるのか信じないのか、それが全ての人にとって、一番大切なことであると迫る。その問い掛けは、私たちにも及ぶ。私たちも主イエスの十字架と復活について、自分の答えをはっきり持つことが大事となる。(22〜24節)

<結び> ペンテコステの日に、目に見えるしるしや耳に聞こえる物音を伴って、弟子たちの上に聖霊が降った。その日、弟子たちは、十二使徒たちだけでなく、120人以上いたと考えられる。そして「みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした」のである。主イエスが、「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます」と言われた通り、彼らは、イエスの十字架と復活の出来事を証言する証人となって語り始め、福音は、いよいよ全世界へと広がるのである。聖霊の満たしは、弟子たち一人一人の上に、確かなこととして実現し、彼らが力強く語ったからである。

 この日の聖霊の満たしは、この日限りの特別なことであった。けれども、その時に起こったことは、その後の教会の歩みにおいて継続されている。すなわち、聖霊に満たされることは、全てのクリスチャンにとって、必ず実現することであり、実際に、私たちはみな聖霊に満たされ、聖霊に心を動かされ、行動を促されて歩んでいる。私たちの課題は、「みなが聖霊に満たされ」ている事実を、もっと自覚することである。そして、私たちも「御霊が話させてくださるとおりに」、主イエスの十字架と復活の証人として語るのを、決してためらわないことである。なぜなら、聖霊の満たしは、全ての弟子たちに分け隔てなくなされていたからである。神の愛と恵み、そしてあわれみは、弟子たちに豊かに注がれ、一人一人を、みな復活の証人として立たせてくれるものである。私たちもそれぞれ、主イエスを救い主と信じる信仰によって生きることを導かれ、またイエス・キリストの十字架と復活を証しする歩みを、しっかりと歩ませていただきたい。聖霊に満たされ、そして語ることは、主イエスご自身が私の内に住み、主ご自身の思いを自らの思いとして語り、また行うこと・・・となる。それは、私たちがキリストに似る者となり、キリストのように生きることであり、私たちの地上の生涯は、最高の栄誉を与えられていることになる。ますます心を低くし、感謝をもって歩ませていただきたい。