受難週とイースターを過ぎ、来週はペンテコステ(五旬節)を迎える今朝の礼拝から、「使徒の働き」をしばらく読み進むことにする。5月第三週は、毎年「教会設立記念礼拝」であり、第一世紀の初代キリスト教会がどのように歩み始めたのかに触れながら、私たちの教会がどのように歩むのか、確かな道しるべをいただきたい。神の民としての「教会」は、天地創造の時からずっとつながっている。そして「教会」は世の終わりまで続き、天の御国にまで至る。その「教会」の歴史において、主イエスが死からよみがえり、天に帰られた後、これからの「教会」を担う弟子たちは、聖霊を注がれ力を与えられた。その直前、彼らがどのようにしていたか、先ず1章に記されている。
1、この「使徒の働き」という書物について、これを記したとされる医者ルカは、先に記した「ルカの福音書」の続きであると語っている。いずれもローマ在住のテオピロという人に献上され、イエス・キリストの出来事について、正確に知ってほしい、自分のこととして確かめてほしいと、そんな思いを込めていた。イエスが天に上げられた後、弟子たちは不思議な導きと力を与えられ、今や全世界へと、福音が届けられていることを、あなたにも知ってほしい・・・と。その書き出しで、復活後の四十日の間、主イエスがどのように歩まれたか、何を語り、何を弟子たちに命じておられたか、そして、どのように天に上っていかれたのかを記している。主は度々、彼らの前に現れ、「神の国のことを語り、数々の確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。」弟子たちの「復活信仰」を堅くしようとされていた。そして、父の約束である「助け主」の到来を、しっかり待つように、聖霊が降ることを待つようにと、念押しをされたのである。(1〜5節)
2、いよいよ時が近づく・・・と思えば思うほど、弟子たちは、未だにメシヤに対する期待を抱き、しかも間違って期待している姿を見せていた。(6節)主は言われた。一切を父なる神に任せるように、「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります」と、これまでと違う展開があることを、はっきりと語られた。最後の晩餐の席で語られたこと、「助け主」である「聖霊」が降ることについて、より明らかにされた。その言葉を最後に、主イエスは弟子たちが見ている目の前で、天に上って行かれた。弟子たちはあっけに取られていたようである。「あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります」と言われた言葉を、果たしてどのように聞いていたのだろうか。ややぼんやりしていた弟子たちのようであるが、エルサレムに戻り、彼らが泊まっていた部屋、「屋上の間」に集まり、父の約束の実現を待ち望んで過ごすことになった。(7〜13節)
3、この時、使徒たちは11人であったが、その他の弟子たちを含め、かなりの数の集団となっていた。ガリラヤから一緒に来た婦人たち、母マリヤにイエスの兄弟たちも加わり、その数は120名ほどであった。その一団が、何に心を注ぎ、何をしていたのか。彼らがしたのは、「みな心を合わせ、祈りに専念していた」ことであった。(14節)気持ちのはやる者がいたであろう。他方、なお、ためらう者もいたであろう。11人の使徒たちの性格は多種多用で、男性と女性がいて、総勢120人ともなると、一つにまとまるのは容易くなかったに違いない。しかし、だからこそであろう。彼らは「みな心を合わせ」ることを求め、そして「祈りに専念して」、約束の実現を待ち望んだ。いつまでか、彼らは知らなかった。けれども、心を合わせて、祈りに専念した。それは、どんなことがあろうとも、神を待ち望もうとしたことである。一人一人に考えの違いがあっても、神は何を語り、何をしようとされているのか、神の御業を待とうとすることにおいて、心を合わせたのである。これは、ただ単に、みなが同じ思いになろうとすることではない。互いの思いを一つにしようとして、違いが退けられる時は、注意が必要である。「一致」を強調する時、私たちがともすると陥る過ちかもしれない。教会で「みな心を合わせ」ることが目指すのは、「祈りに専念」するためであり、神の御業を待ち望むためである。弟子たちは、互いの思いは違っていても、神を待ち望もうとしたのである。
<結び> 祈りに専念した弟子たちは、約束の実現まで、なお十日待たねばならなかった。その間に、祈りを通して導かれたのは、十二使徒の補充であった。イスカリオテのユダの代わりとなる者はだれなのか、くじを引いてマッテヤを選んだのであった。彼らは、「復活の証人」となるために、自分たちでできる準備を整えることに心を配ることができた。(15〜26節)
私たちの教会は、今、どのように主の前に立ち、主の導きを、また主の御業そのものを待ち望んだらよいであろうか。1979年5月20日、三名の長老任職により教会設立に導かれた。以来36周年を迎えて、これから主は何をさせて下さるのか、何を待ち望むよう命じておられるのだろうか。会堂のことなのか、それとも他のことなのか。教会のことなのか、それとも別なこと、一人一人の生き方のことなのか・・・。何なのか、課題は多種多様である。けれども、私たちが集中すべきは、祈りに専念すべきであり、神が生きて働いて下さることを要請する祈りに、みなが心を合わせること、これこそ、今、私たちに必要なことである。神が御業を成し遂げて下さるように、私たちが何かをするかより、祈りを通して、神が実際に手を伸べ、働いて下さることを待ち望むことを、いよいよ切に求めたい。(イザヤ40:28-31)
私たち人間は、何か事を成そうとすると、神のご計画があることが分かっていても、自分たちの考えや思いを膨らませてしまう。神を待ち望むより、急いだり、焦ったりという傾向がある。私たちが神を信じるのは、どんなことでも、焦らず、神を待ち望み、神のご意志に任せるためである。だから祈って待つため、いっしょに祈る時を尊び、また、共に集うことができなくても、神ご自身が働いて下さることを待ち望む祈りをささげるため、「みな心を合わせ」ることを、初代教会の人々のことを覚えつつ、私たちも追い求めたいと思う。
(※イザヤ30:15-18)
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