「また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。」
そもそも御霊に満たされるとはどういう意味でしょう。御霊に満たされるとは、「神の聖なる霊に人格が支配されることです。」
御霊は聖霊とも呼ばれて父なる神、子なる神イエス・キリストと共に神様です。三人の神様がいるのではなく三つで一人の神様がいるのです。これを聖書の三位一体の教えと呼んでいます。イエス・キリストを信じる者の内には既に御霊が宿っておられます。これを御霊の内住とも言います。コリントの教会、分派や分裂、不道徳がはびこっていたあまり信仰的には上質の人々と思えないクリスチャン達に対して第一コリント3:16「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。」と教えています。聖書の命令はさらに御霊に満たされなさい、と言うのです。
イエス様は「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。」(ヨハネの福音書14:16)と約束してくださいました。
今日から2週間後の5月24日は、ペンテコステの祭日です。ペンテコステとはギリシャ語の五十という意味です。ヘブル語でシャブオートといって、七週間を意味します。過ぎ越しの祭りにイエス様の十字架と復活があって、そののち七週間=50日たって聖霊が注がれたことを記念するキリスト教会の祭りです。このペンテコステの祭日は、もともと、キリスト教の祭日ではなく、ユダヤ教の祭りでした。なぜかと言えば、出エジプトのとき、モーセがシナイ山で神様御自身から十戒で代表される律法を与えられたのがこの日とされていたからです。カナンに定着してからは、春になって最初の農業の祭り、大麦刈の祭日になったのです。
イエスさまは天に帰っていかれるとき、すぐに聖霊をお与えにならず、更に父の約束を待ちなさい、と言って、10日間待たせました。なぜでしょうか。それは、この日が、モーセが律法を授与された日とされていたからです。律法が与えられたと同様の大切なこと、聖霊が与えられる日をその日になさったのです。
ここに、「御霊に満たされなさい」という命令が書かれています。命令は反対のものと照らし合わされています。それは酒に酔うことです。酒に酔えばどうなりますか。思考力がアルコールに支配されて、自分でない自分になってしまいます。欧米で強い蒸留酒をspiritsと呼ぶのも皮肉なことではありませんか。
ギリシャ語の命令形には3つの特徴があります。内容に深く関係した大事な事柄を含んでいるので注意して聞いてください。
1.現在命令形
ギリシャ語の命令形には不定過去命令形と現在命令形との二つがありますが、ここで使われているのは現在命令形です。不定過去命令形だったら一回そうなってしまえば後は大丈夫と言うのですが、現在命令形の場合一度限りではなく繰り返して、とか継続的にとかいう意味です。何回でも求め続けていかなければなりません。同じようにマタイ7:7には「求めなさい。そうすれば与えられます。」とありますが、これも現在命令形です。繰り返し何回でも求め続けていくのです。
聖霊に満たされ続けることを求め続けていくべきなのです。
2.主語は 二人称複数です。普通、日本語にも英語にも命令形はstopとか goとか動詞の言いっきりで主語なんかありません。ところが聖書の原語ヘブル語にもギリシャ語にも命令形には主語があるのです。あなたひとりでなく、二人称複数であなた方が揃って御霊に満たされることこそが神さまの命令です。キリストにあるもの皆が御霊に満たされることが命令されています。
3.命令は受動態です。
神が御霊を満たしてくださいます。感謝して受け取ればいいのです。自分からがんばってもがく必要はありません。御霊は神さまからの贈り物です。
神様からいつも満たしていただきましょう。
御霊はどなたで、また御霊はどのような方ですか。
父なる神と子なる神イエス様と共に御霊は聖霊とも呼ばれて同様に神様です。三人の神様がおられるのではなく、ただ一人の神様がおられるのです。聖書のこの教えを三位一体と言います。
御霊は私達のうちに実を結ばせてくださる方です。
(p371)ガラテヤ人への手紙5:22,23「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」 御霊の実の実は果実で日本語ではフルーツと発音されて、最後にsがついているように思われますが、英語でもギリシャ語でもfruitは単数です。御霊の実はひとつの中心があって、それは愛なのです。愛が形を変えたもの、それがここに言われている幾つもの徳目、愛以下の喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制なのです。御霊に満たされるならこのような実が、本来私の中にはなかったものなのに、自分の中からあふれてくるのです。
御霊は私達の助け主です。
(p210)ヨハネの福音書14:16,17「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。」
助け主はギリシャ語ではパラクレートスで「弁護のためにそばに呼ばれてきた人」の意味です。真理の御霊、いつまでもともにいてくださる方、助けぬし、大きな励ましであり力でもあります。いつも一緒にいて下さるとはなんという心強さでしょう。助け主、呼ばれて傍らに立っていてくださる方、パラクレートスは現代ギリシャ語でも弁護士を意味しています。
御霊はイエス様の栄光を現し、イエス様のことを教えてくださる方です。
(p214)ヨハネの福音書16:14「御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。」
すなわちイエス様の御霊です。ですからイエス様の栄光を現し、イエス様のことを私達に知らせます。
御霊に満たされるとどうなるのでしょうか。使徒の働き1:8には力を受けると書かれています。どういう力ですか。大きな岩を小脇に抱え、ちぎっては投げ、ちぎっては投げ、というような力でしょうか。いいえ。地の果てにまでキリストの証人となる力です。使徒の働きの中で御霊に満たされたと書いてある箇所を全部調べましたが、1.安定した信仰生活の確立が4回 2.力強く神の言葉を語るが5回 3.異言を語ったのは1回です。ほとんど全部、神の言葉を大胆に語ることに結び付けられていました。
ですからイエス様について証ししようとするときには、どういう風に何を話そうかと心配する必要がないのです。御霊が力をくださいます。
御霊に満たされることを求めて何をしていったらいいでしょうか。
エペソ人への手紙5:18,19の並行箇所とも言える(p393)コロサイ人への手紙3:16「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。」
御霊に満たされることと、キリストの言葉を豊かに住まわせること、これら二つのことのもたらす結果は同じです。
「詩と賛美と霊の歌」と言われていますが、詩とはギリシャ語ではプサルモス、英語のPsalmsすなわち旧約聖書の詩篇です。長くイスラエル民族の、霊感された讃美歌でした。賛美と言うのは詩篇ほどではなくともキリスト教会にある程度、定着した賛美がありました。これが賛美です。そのいくつかのものは新約聖書の中に実例を見ることができます。それよりも軽くいわば即興的に歌いだされた賛美が霊の歌だったのだろうと思われています。いずれにしても御霊に満たされるといろいろな手段で神を賛美します。現代においても各種の賛美が歌われています。神への賛美は御霊の働きの結果です。出来上がったものとは見ないで、次々に新しい賛美を生み出していったら良いと思います。
御霊に満たされることと、御言葉を豊かに住まわせることとが深い関連があるということは明らかです。
キリストの言葉を離れて御霊の満たしはありえません。
「キリストの言葉をあなた方のうちに豊かに宿らせ」と言われると、その実践は、聖書の言葉の通読や朗読、黙想や研究、聖句暗唱、聖書の言葉を用いての語り合いや励まし合いなどがあげられるでしょう。
ところが、もう一つ大事な実践が御霊の満たしに関してあるのです。
それは祈りです。(p381)エペソ人への手紙6:18「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。」
祈るということはクリスチャンにとって最大の働きであると、最近になってますます学ばされています。祈りは御霊の助けによって可能です。実際私達はどう祈ったら良いかわからないのですが、御霊が弱い私達を助けて祈らせてくださるのです。
最近読んだ本にジム・シンバラという著者の「Flesh Wind, Fresh Fire神よ。私の心に聖霊の火をともしてください」(新生宣教団)と言う本があります。NY市のブルックリン・タバナクルという教会を無理やり任されて20人から6000人にまで育てた牧師の祈りについての証です。夫人のキャロルも自分は音符が読めないのに、聖歌隊を指導して名誉あるグラミー賞を受けるまでに育てました。秘訣を聴きに来る人に二人は「祈りです」と答えています。祈って牧会をし、祈って聖歌隊を指導しました。まったく祈りだけの結果として教会は20人から6000人に成長し、聖歌隊もグラミー賞を獲得したのです。多くの人がどのように指導しているのかを知りたがるのですが、彼らの答えは、聖歌隊の練習の前にも必ず30分の祈りを捧げてから練習に入るというものでした。賛美は祈りによって支えられているのです。
次に大事なことは赦すということです。自分を痛めつた人を赦すことができますか。自分の家族を殺した犯人を赦せるでしょうか。韓国に実例になる牧師がいます。孫良源(ソンヤンウォン)は自分の二人の息子を殺した暴徒を赦しただけではなく、養子にしました。この決心をするまでには長い戦いの祈りを必要としていました。山の中の藪の中でうめきながら祈っている声を聞いたと妹は証言しています。もし人の過ちを赦すなら、あなた方の天の父もあなた方の過ちをお赦しになる。しかしもし人を赦さないならあなた方の天の父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。
私達は毎週の礼拝で主の祈りを捧げますが、「私達の負い目を赦してください。私達も自分に負い目のある人たちを赦しましたように。」と。当然私達は自分の罪の赦しを求めて祈ります。しかし私達は、兄弟が自分に犯した罪の一つ一つを本当に赦しているでしょうか。
御霊の実は直接赦しについては言っていませんが、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制と教えるときその中心は愛であって、それ以下のものを従えており、そこには赦しという文字がなくても赦しが入っていることは明らかです。
御霊に満たされるとどうなりますか。
第一に祈る人になります。御霊によって祈れるからです。
第二に神の言葉、キリストの福音を力強く語る人になります。どこでかと言うと、自分の今おかれているところから始めて地の果てにまで及びます。こうして世界宣教は成し遂げられていきます。
第三に赦す人になります。赦す愛の交わりこそ教会が必要としているものです。
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