礼拝説教要旨(2015.05.03) =日本長老教会設立記念礼拝=2015年度主題聖句=
主の御業にたずさわる幸い
(詩篇 127:1〜5)

 「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。」(1節)この御言葉を、私たちは「2015年度主題聖句」として掲げることとした。新たな会堂建設を願うこの年、会堂のことのみならず、私たちの教会の歩みの全てに渡って、主が共にあって支え、また導いて下さることを覚えたいからである。私たちは何をするにも、主の御手の中にあること、主が事を成して下さることを覚えて歩みたい。しっかり心の目を開いて主と共に歩み、主が成し遂げて下さる業に、喜びをもって参加したい。今朝は「日本長老教会設立記念礼拝」である。主が、ここまで導いて下さった恵みを感謝しつつ、御言葉に耳を傾けてみたい。

1、この詩篇127篇は、「建物」としての「家」を建てることにも、また、そこに人が住んで築く「家庭」としての「家」を建てることにも、どちらにも当てはまる真理を、見事に歌い上げている。もちろん、家を建てることだけでなく、人が生活する全ての営みにおいて、背後に神の守りのあることを知ることの大切さを、鋭く見抜いている。短い詩篇は、前半の1〜2節でそのことを歌い、後半の3〜5節で神に祝福された家庭を歌う。私たち人間が気づこうと、気づくまいと、神の御手の守りの中、また支配の下で、私たちは生きているのである。「あなたがたが早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦の糧を食べるのも、それはむなしい。主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。」(2節)私たちは、神のご臨在と、その御手の守りに気づいているだろうか。また感謝をもって過ごしているだろうか。

2、1976年5月16日の礼拝にて、この詩篇が読まれ、「主、家を建てたもうにあらずば・・・」との説教がなされた。(※39年前のこと)会堂建設準備委員会発足後、間もない頃、これからの会堂建設計画がどのように導かれるのか、御言葉に従いたいと願ってのことであった。主の御業が行われるようにと願い、私たちは、主の業に参加したいと、心から願ったのである。その時、会堂建設五ヶ年計画はできていたが、具体的なことはなく、一年後の1977年7月24日、土地購入決定となった。(※112坪:3,000万円、現住陪餐会員:15名、礼拝出席:31名、予算月額:233,000円、会堂建設積立金:1,863,783円)ただただ主の御業!と、驚くばかりのことであった。私たちは、全くの無力のまま、主のご計画に着いて行くのに精一杯・・・という、そんな思いであった。けれども、一歩一歩、不思議と道が開かれた。翌年、1978年4月30日に「第一期会堂建設献堂式」を迎えた。そこから、主の御業は加速した。その年の12月10日に「第二期会堂建設献堂式(現会堂)」を迎え、主の大きな御業は、私たちの思いを越えている・・・と、そんな実感があった。

3、事実、会堂建設としては、日本社会のバブル経済も影響して、更に拡張や移転の思いに発展した。しかし、様々な検討を加えながら、自重することも学ばされた。そして、2001年に「隣地購入と牧師館取得」が導かれ、15年を経て、いよいよ新たな計画へと導かれている。ここに至る全てが、主の業であったことを感謝し、これからも主の業であること、その御業に参加するのが喜びとなること、主をほめたたえ、主のご栄光が現わされることを求め、その御業に一同でたずさわること求めたい。皆が同じように関わるのではなく、それぞれに関わり方の違いのあることをよく理解したい。そのことが、この詩篇にも歌われている。家を建てる人がいて、また町を守る人がいる。家にも、町にも、他の様々な働き人がいて、それぞれの営みがあって、全体が成り立つのである。教会はキリストのからだであると言われる時、一人一人はその枝、肢体と言われている。皆が同じ働きをするわけでない。祈る人、献げる人、労する人など様々である。分に応じて、与えられている賜物に従い、喜んで仕え、またたずさわることが大事なのである。(コリント第一12:4-6、12、ローマ12:4-5)

<結び> この所沢聖書教会の歩みと、日本長老教会の歩みは、私にとって、重なるところが多い。日本基督長老教会の時代に、8坪の教育館で中会会議を行った記憶がある。牧師と長老がその建物に入り切った。(それ位、まだ小さな教会であった)その後、現会堂でも、中会のため集まったことがあるが、その時も入れた! 今では隔世の思いがする。1993年5月3日に「日本長老教会」を設立し、現在64教会となった。1999年5月3日に武蔵中会を設立し、最近の大会会議は、総勢200名近い大所帯となって、会場探しが大変である。長老教会全体の歩みに関しても、詩篇の言葉はピッタリ当てはまる。「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。」主が、私たちの教会をここまで導いて下さったと、感謝は溢れるばかりである。これからも、主がご自身の教会を建て上げて下さる働きに、私たちも参加させていただいて、尊い御業にたずさわらせていただきたい。その栄誉と栄光に与らせていただけるなら、私たちは何と幸いなことであろうか。この国あって、主の証し人として、たゆまずに前進させていただきたいものである。