礼拝説教要旨(2015.04.26) 
見ずに信じる者は幸いです
(ヨハネ 20:24〜31)

 十字架の死から三日目の朝、主イエスは死からよみがえられた。主は、復活の身体をもって弟子たちの前に現れ、戸惑う弟子たちの心をほぐしながら、彼らを「復活の証人」として世に送り出すよう導いておられた。復活された主イエスを、心から信じる信仰へと進ませ、罪の赦しを得させる悔い改めを宣べ伝えるため、彼らを遣わそうとされたのである。ところが、主が弟子たちの前に現れ、魚を一切れ食べ、「まさしくわたしです・・・」と言われた、その最初の日の夜、なぜかトマスはその場にいなかった。そのためトマスと他の弟子たちとの間に、復活された主をめぐって、意見が分かれることになった。主にお会いした弟子たちと、会わなかったトマスとの間で、どちらも歩み寄ろうとはしなかったようである。(24〜25節)

1、この対立は、互いに自分の思いをぶつけ合うばかりで、何ら解決を見出せないまま一週間が過ぎている。その間、弟子たちはどのように過ごしたのか、福音書の中には何も記されていない。淡々と一日一日が過ぎたのか、それとも、彼らは、主の復活について、「話し合ったり、論じ合ったりした」のだろうか。主にお会いした弟子たちは、その日、また数日は喜びを保っていたのではないか。けれども、四、五日過ぎると、トマスの方が強気になったのでは・・・と、そんな弟子たちの様子が思い浮かぶ。そして「八日後に、弟子たちがまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた」時、主イエスは彼らの前に現れ、彼らに声をかけておられる。トマスがそこに居る時、主は、トマスのためにお姿を現された。(26節)主は、トマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」(27節)

2、主イエスは、この時、トマスの目の前に立ち、はっきりと語っておられた。彼の不信仰を責めるのではなく、むしろ、彼が確かめたいのなら、しっかり触って、よく見てみなさい。彼が何を求めているのかをご存知の上で、彼に語っておられた。トマスは、触って確かめることに拘っていたが、主を見て、その声を聞き、最早、疑いは拭い去られた。「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」との勧めに呼応して、「私の主。私の神」と、彼は心からの信仰を言い表した。イエスに対して、「私の主。私の神」と告白することは、正しい、また完全な「信仰告白」の一つの形であった。トマスはその告白へと導かれた。主は、トマスを導くため、彼一人を導くため、その日、弟子たちの前に姿を現しておられたのである。それほどに、この日の出来事は重いことであった。そして主は、もう一言、「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです」と語られた。(28節)

3、これは、彼を責める言葉なのだろうか。「わたしを見るまで、そんなにも信じられなかったのか・・・」と言われたのだろうか。彼は確かに、目の前に主を見て、それで信じる者となった。けれども、だからと言って、主イエスはトマスを責めておられたのではなかった。むしろ、これから先、福音が宣べ伝えられる時、肉の目で見て信じるのではなく、見ないで信じる信仰が大事となることを、主イエスご自身が見越しておられたのである。やがて天に昇る時が来て、弟子たちの前から去るなら、誰も主イエスを目で見ることはできなくなり、その身体を触ることもできなくなる。その時が来るなら、主を見るのは霊の目によること、信仰の目によることになる。だから「見ずに信じる者は幸いです」と言われた。この先、信仰により主イエスを見る人、見ないでイエスをキリストと信じる人こそ、本当に幸いな人と約束されたのである。この約束の言葉があって、世々の教会はその働きを続けることができるのである。

<結び> この後、主が天に昇られ、五旬節(ペンテコステ)の日に聖霊が降り、弟子たちは復活の証人として、しっかり歩め始めた。その時から今に至るまで、主イエスをキリストと信じる者はみな、見ずに信じる幸いを味わう者たちである。しかし、その幸いに自力で到達した人はなく、かえって、その幸いに招き入れられた人たちである。聖書が書かれたのは、読者が「イエスが神の子キリストであることを信じるため」であって、「信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである」と、はっきりと記されていて、信じて歩み始めるのは、私たち自身である。けれども、私たちが聖書を通して主イエスに出会い、イエスを神の子キリストと信じ、イエスの御名によって永遠のいのちを与えられ、神にあって生かされる幸いに与るのは、見ずに信じる幸いが約束されているからである。単純に信じた人もあれば、信じるまでに紆余曲折を経た人もいる。しかし、肝心なことは、主ご自身が私に近づき、手を差し伸べ、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と声をかけて下さったことである。しかも「見ずに信じる者は幸いです」と語り、心の目、霊の目で主イエスを見る道筋を備えて下さっているのである。死からよみがえった主イエスを神の子キリストと信じる信仰は、神が賜物として与えて下さった信仰であって、救いは神の恵みであると、決して忘れずに歩ませていただきたい!