礼拝説教要旨(2015.04.19) 
彼らの心を開いて
(ルカ 24:36〜49)
 
 主イエスが復活されたその日、弟子たちは、事の大きさに翻弄されていた。期待もせず、考えもしないことが起こったわけで、どのようにすればよいのか、何も分からないまま息を潜めている・・・、そんな様子であった。エマオから戻った二人が、主にお会いした!と、心を弾ませて語っていた、その時、「イエスご自身が彼らの真ん中に立たれた。」弟子たちが、戸を閉ざしていた部屋に、主が入って来られ、よみがえりの身体を示し、「まさしくわたしです」と、彼らに語り掛けておられる。主は、弟子たちの心の動揺を知っておられた。戸惑っている彼らの心を、少しずつほぐそうとされた。弟子たちにとって、復活は、それほどに信じられない事柄であった。(36〜39節)

1、目の前に主イエスのお姿を見ても、「彼らは驚き恐れて、霊を見ているのだと思った。」目に見えるイエスのお姿には、手で触れる実態はなく、霊を見ているだけ・・・、と思っても、それはごく自然なことである。理性を働かせて物事を考える人は、目の前の出来事が、果たして本物か、それとも仮の幻か、常に慎重に考えるものである。弟子たちは、現代人とほとんど変わらず、理性をもって考え、行動する人たちであった。その弟子たちに、主は言われた。「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。」疑うなら、触ってみなさい・・・と。幽霊でもなく、幻でもなく「わたしだ!」と。私たち人間の常識は、ちょっとやそっとで変わるものではない。百聞は一見にしかずと言っても、見たらすぐ考えを変えられるほど柔軟ではない。弟子たちが戸惑っている様子は、想像に難くない。彼らは、嬉しいはずなのに、「まだ信じられず、不思議がっている」のであった。(41節)

2、この時、主イエスは弟子たちのため、彼らの疑念が晴れるようにと、焼いた魚を一切れ食べ、身体をもってよみがえったことを示しておられる。霊ではない、身体をもって、今、あなたがたの目の前にいる・・・と。主は弟子たちに、手や足を、そして脇腹も示して、「まさしくわたしです」と、しっかり確かめてみなさい、と近づいておられた。無理やりでなく、けれども、よくよく見てみなさい・・・と。エマオ途上の二人に対して、またエマオの食卓で、そして、エルサレムの弟子たちの前で、ご自分のお姿を現しつつ、主ご自身は、弟子たちの心がほぐれるのを待っておられた。弟子たちを復活の証人として送り出すことを、主は望んでおられた。けれども、彼らが、自らはっきりと信じる者となるのを願い、説明もし、魚を一切れ食べるまでして、ご自分が身体をもて生きていることを示しておられる。弟子たちの心は少しずつ開かれ、復活を信じる彼らの信仰は、徐々に、しかし確実に堅くされていた。(42〜43節)

3、このようにして、弟子たちの復活を信じる信仰は、次第に堅くされて行ったが、その信仰が一層堅くされるために、主は、聖書を説き明かしておられる。「『わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。』」(44節)そのように語り、「聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、こう言われた。『次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。あなたがたは、これらのことの証人です。さあ、・・・』」と続けられた。(45〜49節)旧約聖書全体が何を語っているのか、それはキリストについての良き知らせであり、キリストは苦しみを受け、三日目によみがえるとの約束が成就したことを知るように、と語られた。罪を悔い改め、キリストを救い主と信じる信仰によって、罪の赦しを得る人が起こされるように、そのためにあなたがたは遣わされる・・・と。弟子たちはみな、主イエスによって心を開かれ、聖書を悟るように導かれていたのである。主によってのみ、人の心は、本当の意味で開かれる。こうして弟子たちは、一層復活を信じる者として整えられて行った。

<結び> 復活信仰が整えられ、堅く、堅固なものとされるのに、一日で・・・ということはなかった。44節以下の記述は、復活された最初の日の夜のことだけでなく、それに続く日々、主イエスが昇天される日までのこととも理解できる。繰り返し聖書に聞き、復活の主にお会いし、主の教えを聞きつつ、主によって、心を開かれる経験を積み重ねて、弟子たちは整えられている。この時、主イエスは、弟子たちが「証人」として歩み始めるためには、もう一つ、父の約束のものを待つように命じておられた。聖霊が注がれ、力を受けるまでは、「都にとどまっていなさい」と。「復活の証人」としての確かな力は、人の意欲や願いや熱心からでなく、神ご自身から来ることを信じて待つように・・・と教えておられる。

 私たちの信仰、主イエスを救い主と信じる信仰は、神から来ることを心に留めたい。また、主イエスが十字架の死からよみがえり、今も生きておられ、救い主キリストとして私たちを導いて下さると信じるのは、主ご自身が、私たちの心を開いて下さったからと、心から感謝したい。主は弟子たちの心を開かれ、私たちの心をも開いて下さるのである。そのことがなければ、私たちは、今も罪の中に沈んだままである。その悲惨さは計り知れない。この世の罪、その悲惨さの闇、そして、その恐ろしさは想像に難くない。よみがえりの主イエスが共におられることの幸いを感謝して、今週も歩めるように。どこにあっても、上からの力、励ましに支えられるように。(エペソ2:1-5、ペテロ第一1:18-21)