礼拝説教要旨(2015.04.12) 
心がうちに燃えるとき 
(ルカ 24:13〜35)
 
 主イエスの復活の出来事は、その知らせを聞いた弟子たち、ずっとイエスと共に歩み、近くにいて教えを聞いていた者たちでさえ信じられない、とんでもない話、「たわごと」と思われた。彼らはみな、空っぽになった墓を前にして途方に暮れ、御使いの知らせを聞いても、失意や戸惑いから抜け出すことはできないでいた。その様子の一端が13節以下に記されている。エマオ途上の二人の弟子の姿である。彼らは何の用事があったのか、エルサレムを離れ、西北西に約11キロメートルの村に向かっていた。ひとりは「クレオパ」と、その名が記されている。ヨハネの福音書19章25節の「クロパ」と同一人物と思われ、妻のマリヤと自分の家に向かっていたとも考えられている。(13〜18節)

1、二人がエルサレムを離れたのは、確かに家に帰るためだったのかもしれない。けれども、もしイエスのよみがえりの知らせを聞いて、そのことに関心を示していたなら、エルサレムに留まり、本当のことを知りたい・・・と、そう願ってもよかったはずである。けれども、彼らも、イエスのよみがえりは「たわごと」と思い込み、自分の用を果たすべく、エマオへと向かったのに違いない。それでも、二人の話題は空になった墓のことから離れられず、いくら話しても堂々巡りするだけであった。その二人に、イエスご自身が近づき、彼らと共に道を歩かれたのである。ところが、「彼らの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。」何とも不思議な光景である。同行されるイエスの方を見ることもなく、失意の中で下を向き、何もかもやり直し・・・と、そんな思いがふたりの心の中を占めていたのであろう。主が問い掛けて下さっても、「エルサレムで起こったことを、あなたは知らないのですか」と、空になった墓のことで、弟子たちの仲間は、みんな戸惑っている・・・と答えるだけであった。よみがえりの期待すら、全くなかったのである。(19〜24節)

2、この二人を含めて弟子たちはみな、イエスが復活された朝の出来事を、大筋で知らされていた。それで、何があったのか、知らない人には教えてあげようとしている。その話の端々には、もう終わったことで、これからどうするのか、希望を失ってしまった・・・そんな痛みが見受けられる。「しかし私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。」その望みは消えてしまった・・・と、過去のことと言うので、主は「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち」と言われた。主は嘆いておられた。弟子たちでさえ、当時の人々と同じように、メシヤについての期待は、地上の王、政治的な解放をもたらす方との視点が強かったからである。彼らも、聖書が説くメシヤ、すなわちキリストについて、誤って理解していた。「キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか。」苦難を経て後、栄光に入るキリストこそ、聖書が教えるものであるのに、その教えを見落としている・・・と。そして、主は、「聖書全体の中で、ご自分について書かれている事がらを彼らに説き明かされた。」旧約聖書が告げることは、苦難の後の栄光、また勝利であって、地上で、人々が好む栄光や勝利と違うものであると知ること、見抜くこと、それが聖書を理解する大切なカギである・・・と。(25〜27節)

3、けれども二人はまだ、聖書の教えをよく理解したわけではなかった。キリストが苦難の後に、栄光に入ること、死からよみがえって、生きておられると信じるには、復活された主イエスにお会いする必要があった。もうすでに会っていたにも拘らず、はっきりとお会いすることである。エマオに着いて、イエスが先に行きそうな様子を見て、二人はイエスを家に迎え入れた。イエスを客として迎え、泊まるよう引き留めた。その食卓で、「イエスはパンを取って祝福し、裂いて渡された。」その時、「彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。」彼らは、復活の主イエスに、はっきりとお会いし、それまで、主イエスと共に歩んだ道のりを振り返り、また聖書の説き明かしに、心がうちに燃え上がったことを思い出した。その時すでに、主のお姿はそこになかったが、主が生きておられるとの確信は、最早消えなかった。それで、すぐさまエルサレムに戻った。心のうちの高鳴りを、仲間に伝えずにはいられなかったからである。エルサレムでは、弟子たちが集まり、主のよみがえりの証言が、徐々に増えていた。「ほんとうに主はよみがえって、シモンにお姿を現された。」二人も、自分たちの経験を、嬉々として話している。しかし、それでもまだ、イエスのよみがえりは、彼らにとって、半信半疑の謎、これから何をしたらよいのか、不安を解消するには、まだまだ難しいことであった。(28〜35節)

<結び> イエスの復活があった週の初めの日の夜、エルサレムで集まっていた弟子たちの中で、一番興奮していたのは、エマオでイエスにお会いした二人であったに違いない。会った人と会ってない人の差、それはとても大きかったと思われる。会った人が、「私たちの心はうちに燃えていた」と語っても、聞いた人が、「そうだったの!」と共感し、実感するのは難しいことであろう。しかし、主にお会いした人の心が、「うちに燃える」経験は、強烈で、打ち消し難いもの、その後の人生を決める重大なことになった。そのような強烈な経験は、主イエスを救い主と信じた私たちにも、確かに当てはまることである。個人差はあるに違いない。けれども、主イエスが共に歩んで下さる道のりがあり、その道々、聖書を説き明かして下さることは、私たちの日々の生活においても、必ず備えられていることである。ぼんやりと過ごすことの多い私たちかもしれない。けれども、傍にいて、共に歩み、私たちの歩調に合わせ、心の思いを探りつつ、聖書を通して大切な教えを語って下さる主が、私たち一人一人をも導いて下さっている。主が共に居ますことを知り、主と共に歩むなら、私たちも必ず、「心がうちに燃えるとき」を経験させられる。主と共に歩む人が増し加えられること祈りたい。そして、共に主をほめたたえることを、益々導かれたい。