受難週を過ぎて、今朝は、主イエスの十字架の死からの復活を記念して祝うイースター礼拝を迎えた。イエスをキリスト、救い主と信じる私たちにとって、とても大事な十字架と復活を、思い新たに心に刻むことを導かれたい。聖書は、ルカの福音書を開いて、十字架の最後の場面と、週の初めの日の早朝、主イエスが死からよみがえられたことを知らされた女たちの姿と、その女たちの話を信用しなかった弟子たちの姿に目を留めてみたい。重大事が起こっていた、その最初の時、復活はとても信じられない、途方もないことであった。けれども、この十字架と復活こそが、代々のキリスト教会にとって、無くてならない中心であり、伝えるべき出来事なのである。
1、主イエスは、ゲッセマネで捕えられ、ユダヤ人の議会による夜通しの裁判で「死罪」とされた。一番の理由は、自分を神とした、神への冒涜罪であった。ユダヤ人の指導者たちは群衆を巻き込み、総督ピラトのもとに訴え出た。ピラトは、渋りながら、遂にイエスを十字架刑へと引き渡した。受難週の六日目、金曜日の朝のことである。刑を執行するローマ兵たちが、イエスと他の二人の犯罪人をゴルゴタの丘へと引いて行き、十字架につけたのは朝の九時頃、それから三時間ばかり、民衆はイエスを嘲り、「自分を救ってみろ・・・」とののしっていた。主イエスは、嘲りに耐え、ののしりにそそのかされず、身代わりの死を遂げるため、痛みに耐えておられた。その間に犯罪人の一人は、自分の罪を認めてイエスにすがる信仰へと導かれていた。どんな人でも、罪を認め、イエスを主と仰ぐ信仰に進むのに、時は必ず備えられる・・・のである。そして昼の十二時頃、全地が暗やみに包まれ、午後の三時にまで続いた。主イエスの十字架上における、最大の苦しみが迫っていた時である。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」との叫びは、この時のものである。父に見捨てられる痛み、この苦しみこそが、身代わりの苦しみである。もっとも親しい関係が絶たれる痛みを、主イエスは引き受けておられた。
(※ルカ23:1以下)
2、主は、その苦痛を味わい尽くしておられた。割引なしに身代わりの死を遂げておられたので、その死により、神と人との隔てが取り除かれることになった。罪を赦された人が神の前に進み出ることを、神は許して下さるのであって、その象徴として「神殿の幕は真っ二つに裂けた。」そして、イエスご自身、「父よ。わが霊を御手にゆだねます」と言って、息を引き取られた。罪人の身代わりとなって死ぬことが成し遂げられ、確かな救いの道が、はっきりと開かれたのである。(44〜46節)この十字架をしっかりと仰ぎ見ていたのが、そこにいた百人隊長である。「ほんとうに、この人は正しい方であった」と言った彼は、イエスが神であり、神の子であると、心から信じる信仰に導かれていた。また、アリマタヤのヨセフも、この時こそイエスの前に進み出たいと心に期して、イエスのからだの下げ渡しをピラトに願い出た。十字架のイエスのお姿を、しっかり仰ぎ見るなら、イエスが神であり、罪のない神の子であること、この方こそ寄り頼むべきお方との信仰に、神が導いて下さるという実例である。十字架の前を通り過ぎるのか、それともしっかり仰ぎ見てイエスを信じるのか、私たちの心も探られる。(47〜52節)
3、金曜日の日没が迫り、安息日が始まろうとしていたので、イエスの葬りは急がれた。亜麻布に包まれ、ヨセフが自分のために用意した新しい墓に、イエスは納められた。ガリラヤからイエスについて来ていた女たちが、その葬りを見届けていた。(53〜56節)週の初めの日、朝早くから墓に向かったのは、彼女たちであった。慌ただしかった埋葬を、もう一度心を込めてしたい・・・と願ってのことである。ところが、三日目の朝、墓にはもう、イエスのからだはなかったので、彼女たちは、途方に暮れるしかなかった。(1〜4節)彼女たちに、御使いが告げた。「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。・・・」イエスはよみがえって、今、生きておられる。あらかじめ語っておられた通りです・・・と。(5〜7節)主イエスに関しては、死は終わりではなかったのである。約束された通りであること、そのことを思い出すように言われて、彼女たちは、少しずつ、主イエスのよみがえりを信じるように導かれた。弟子たちの所に知らせに行く間に、マグダラのマリヤはイエスにお会いし、その上で弟子たちに、イエスのよみがえり、復活のことが知らされたが、彼らには「この話はたわごとと思われた。」これが、イエスの復活の日の、最初の受け止め方であった。驚きや戸惑いばかりが、弟子たち一同の心を満たしていた。喜んだ人がいたわけでなく、一体何が起こったのかとの戸惑いである。空の墓が、一同を大いに戸惑わせていた。(8〜12節)
<結び> けれども、キリスト教会にとって、復活されたイエスが弟子たちの前に現れたのか、現れなかったのか、それが一番大きなことであった。弟子たちが復活の主にお会いして、ペンテコステの日に力を注がれ、いよいよ復活の証人として歩み始めた時、その働きをどうしても認められなかったのがユダヤ人の指導者たちであり、後に使徒となったパウロであった。彼は、イエスの復活など、とんでもない教えと受け入れられず、イエスを信じる人々を激しく迫害していた。それでもイエスを信じる人々はひるまず、「私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません」と、イエスの復活の証人として歩んでいた。(使徒3:13-15、4:20)そして、パウロにも主イエスは現れ、彼を復活の証人として立たせられた。このようにして、教会は、主イエスの十字架と復活こそを、宣べ伝える福音の中心メッセージとし、イエスをキリストと信じる者が起こされるよう、宣教の業を広めて今日に至っている。
パウロは、ある時は、十字架以外には語るまい・・・と心を定めたり、最も大切なこととして伝えたのは、キリストの十字架の死と、三日目のよみがえり、と語っている。(コリント第一1:18、2:2、15:3-8) そして、よみがえったキリストが、自分に現れて下さったことが、どれほどの恵みかと語って、復活がなかったら、教会の全ての働きは無意味なことになると語っている。キリストを信じる者ほど、哀れな者はいない・・・と。けれども、キリストは、本当に死者の中からよみがえったのである。(15:12-20)私たちは、この信仰を与えられている。主の日ごと、また、毎年のイースターごと、主イエス・キリストの十字架と復活を信じる信仰を堅くされて、その信仰の証しに生きる者とならせていただきたい。
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