礼拝説教要旨(2015.03.29) =受難週=
ゲッセマネの祈り=みこころのように=
(マタイ 22:1〜14)

 受難週を迎え、主イエスの十字架への道、その一日一日を心に刻みつつ、この週を過ごしたい。今朝は、イエスが捕えられる前、ゲッセマネの祈りとして知られている場面、苦悩しつつ祈られた主イエスのお姿に目を留めてみたい。ルカの福音書から学んだ時には、「いよいよ切に祈られた」、主イエスのお心に触れた。また、主の祈りを学んだ時にも、この聖書個所に目を留めた。その主のお姿に、今朝もしっかりと触れてみたい。十字架にかかり、身代わりの死を遂げるにあたって、心を定めて歩まれた主イエスのお姿、そして、そのお心を、私たちはもっともっと知るべきと、そう思えてならないからである。

1、受難週の五日目の木曜日、過越しの食事をする広間で、主イエスと弟子たちは、最後の晩餐の時を過ごされた。席に着く前に、主は弟子たちの足を洗い、「主であり師であるこのわたしが、あなたがの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範をしめしたのです。」と、語っておられた。(ヨハネ13:14-15) 主は多くのことを語って、後に弟子たちが、福音宣教のために遣わされるための、大事な心構えを教えておられた。ところが、弟子たちは、大切なことを知らされながら、余りよく理解できないまま、いよいよその広間を出て、オリーブ山へと向かっていた。途中、弟子たちの裏切り、特にペテロの重大な躓きも予告されるなど、一行は、戦々恐々としながらゲッセマネの園に着いた。そこは祈りの場所であり、主イエスはこれまでにも、祈るためにそこを訪れていた。主は、弟子たちから少し離れて祈ろうとされたが、弟子たちにも、共に祈るようにと期待しておられた。更に三人の弟子を伴って先に進まれた主は、激しく心が騒ぐ思いを、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」と告げておられる。「いっしょに祈っていなさい。いっしょに祈ってほしい・・・」と言われたようである。(36〜38節)

2、主イエスは、何にそんなに動揺しておられたのか。それは「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と祈られたことにある。神の怒りと憤りを身に受けることになる「杯」、十字架での「身代わりの死」が迫っていたからである。全く罪のない神の御子が、神の怒りや憤りの対象になることは、有り得ないことである。それなのに、罪人の身代わりとなって、神の裁きを受け、死の苦しみと痛みを味わう時が迫っていた。その苦しみや痛み、悲惨は、到底、私たちの思いの及ばないものである。主ご自身が「・・・この杯を過ぎ去らせてください」と願うほどに、その苦悩は底知れなかった。けれども、祈りは、「しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください」と続いていた。(39節)どうしても受け入れ難いことでも、それが父なる神のみこころであるなら、それに従いますと、自ら神に服従することを告げている。その思いは、二度目の祈りにおいても貫かれている。二度目は、自分の願いについて、一度目より控え目である。「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりになさってください。」(42節)ご自分が引き受けるべき務めについて、「どうぞみこころのとおりをなさってください」と。祈りを繰り返す中で、神に身を任せることが導かれていたのである。

3、一度目も二度目も、主が弟子たちのところに戻られた時、彼らは眠っていた。いっしょに目を覚まして、祈っていてほしいとの願いは届かなかった。悲しみのあまり死ぬほど・・・と言われた主が、いっしょに祈ることを願っておられたことを、私たちは改めて覚えさせられる。教会の祈り会は、主イエスが願っておられるものであること、また私たちの熱心だけでは、祈り続けることができなくても、主が、私たちを励まし、祈りへと向かわせて下さっているものであることを覚えたい。二度目は、もう弟子たちを起こすことなく、主イエスは、もう一度同じことを繰り返して三度目の祈りをされた。(40〜44節)父なる神の救いのご計画を、御子は知っておられた。ご自分の十字架の身代わりの死なしに、罪人の救いは実現しないことを。だから、「どうぞみこころのとおりをなさってください」と祈られた。そして、みこころのようになされることに、身を任せる服従に行き着き、また平安を得て、主イエスは祈りを終えておられる。十字架に付けられ、身代わりの死を遂げる時が来た・・・と。イエスを捕えようとして、ユダに手引きされた群衆が、もう間近に迫っていた。群衆のざわめきや物音が、次第に大きくなっていたのである。(45〜46節)

<結び> 「ゲッセマネの祈り」における主イエスの苦悩は、ルカの福音書に記されている、「イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた」との描写が、全てを言い得ている。(※ルカ22:42-44)その祈りには、御使いの力づけがあったことも記されている。もし、主イエスの十字架の死がなかったなら、それは、私たちに救いはない!ということになる。すなわち、私たち人間の罪の恐ろしさや人間の醜さ、悲惨さ、愚かさ等々、人間が生来持っている悪に走る性質に関して、根本的で絶対的な解決は、どこにもないということである。このことは、私たちが気づいているより、とても深刻であると覚えなければならない。

 どんなに世の人々が、善人はいると叫んでも、その善人に潜む悪について、私たち人間に、根本的な解決はない。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」(ローマ3:23-24)私たち人間が、どんなに努力したとしても、神の聖さや正しさの前に、良しとされるところに辿り着くことはできない。それどころか、内に潜む悪は、絶対に正されることはない。この世にはびこる巧妙な悪や不正の恐ろしさ、それは多くの人の知るところである。私たちは、キリストの十字架の死と死からの復活の出来事を心から信じ、感謝し、罪の赦しを受けたいと心から願う。その赦しのためにこそ、主はゲッセマネで祈られたのである。主イエスの祈りがあって、私たちの罪の赦しの道が開かれ、救いが約束されているのである。