礼拝説教要旨(2015.03.22) 
礼服を着る人、着ない人
(マタイ 22:1〜14)

 受難週三日目の主イエスは、ユダヤ人の指導者たちとの「権威論争」に続いて、もう一つの譬を語り、彼らの頑なな心に迫っておられた。その時、宮には群衆が大勢いて、主は、その群衆に対しても、神の前にどのように生きているかを問うておられた。神の前に自分の罪を認め、その罪を悔い改め、神の前に立ち返るのを、神が待っておられると。けれども、祭司長たちはもちろん、群衆も今一つ、心を開こうとはしていなかった。群衆たちは、イエスに好意を持ってはいたものの、それは「預言者と認めていた」のであって、来るべきメシヤ、真の救い主との理解には至っていなかった。そこで、「イエスはもう一度たとえをもって話された。」(1節)更に踏み込んで、人々が何を信じるべきなのか、どのように神に従うことが求められているのか、について語られた。

1、ユダヤ人の指導者たちの罪については、もう過ぎてしまった罪だけでなく、これから犯す罪が警告されていた。実際に彼らは、「イエスを捕えようとした」だけでなく、殺そうと、その機をうかがっていた。そのような緊迫した状況の中で、主は語られた。「天の御国は、王子のために結婚の披露宴を設けた王にたとえることができます。・・・」(2〜7節)「天の御国」と言うことによって、神が人々のために備えておられる救いの恵みはどのようなものか、そして、その救いに至る信仰はどのようなものか語ろうとされた。「王」は「父なる神」のこと、「王子」は「御子イエス・キリスト」のことである。「結婚の披露宴」は、「神の国」のこと、神の民の幸いを指している。「招待客」は「ユダヤ人」を指す。ユダヤ人たちは、神によって、神の国の幸い、神と共に歩むことのできる幸いに、特別に招かれている民であった。その彼らが招待を無にして、そればかりか王である神に背を向け、「王のしもべたち」を辱め、殺してしまう悪業を繰り返したのである。その行き着く所は、王子を殺すことであるが、この譬ではそこには触れず、ユダヤ人たちへの裁きが下ることが、一層明らかに告げられる。

2、主イエスが次に語られたのは、「結婚の披露宴」という喜びの場、幸いな場に、最初の「招待客」が来なくなった時、「王」が何をしたか、何をしもべたちに命じたのか、そのことについてである。「そのとき、王はしもべたちに言った。『宴会の用意はできているが、招待しておいた人たちは、それにふさわしくなかった。だから、大通りに行って、出会った者をみな宴会に招きなさい。』・・・」(8〜10節)神の国の幸い、また祝福が、ユダヤ人の枠を超えて、全世界の人々に行き渡るように・・・というのが、神のご計画、みこころであることが告げられている。すでに宴会の用意ができ、そこに出会った者をみな招き入れる働き、それが教会の差し迫った働きとなると示されている。譬で暗示された通り、主イエスは十字架の死からよみがえり、弟子たちが福音を宣べ伝えるため、全世界に遣わされることになる。人々を救いに招く神は、人を分け隔てすることなく、一人でも多くの人が、神の国の幸いに入るよう願っておられる。私たちが心に留めるべきは、救いへと人々を招くにあたって、「出会った者をみな」との神の思いこそ、感謝すべきことである。

3、「ところで・・・」と、主イエスの言葉が続く。「王が客を見ようとして入って来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない者がひとりいた。・・・」(11〜13節)その人は、王から咎められ、外の暗やみに放り出された。「礼服を着ていない者」が、ただ宴会から退けられたのでなく、最後の日の裁き、審判によって退けられることを指している。神は全ての人を、神の国の幸いに招いておられるとしても、そこで本当に選ばれ、幸いを得、祝福に与るのは、礼服を着ている人のみであるという厳かな事実について、主は語っておられた。とすれば、礼服を着る、着ないの違いは、一体どこにあるのか・・・。大通りで、無理やりのように連れて行かれた者が、いつ礼服を用意できるのか、大いに疑問がわく・・・。着ていないひとりがいたのは、当時の習慣によることであった。礼服は王が用意するもので、客が、その礼服を着るか、着ないかの違いとなって表れる。支給された礼服を、着ないまま宴席に着くのは、不注意とは言えず、王に対する重大な侮辱、また反逆と見なされた。王の好意を心から感謝し、その恵みに浴すること、その幸いを喜ぶことが、王に良しとされることであった。

<結び> 「礼服」は、披露宴に招かれた者が、自分で用意するものではないこと、招待主である王が支給するもの、これがこの譬を理解するカギである。王が用意して、差し出してくれた「礼服」を、着るか着ないか、それは王の栄誉を仰ぐか、仰がないか、それほどに大事なことである。神が用意して下さったものを感謝して受けるか、受けないか、私たちが神を信じるか、信じないか、これほどに大事なことはない。この二つに一つの道は、結局、神が遣わして下さった救い主、イエス・キリストを信じるか、信じないか、の違いに通じている。主イエスを私の救い主と信じることについて、パウロは「キリストを着る」という言い方をしている。(ガラテヤ3:27)キリストは、私たちが着るべき「礼服」であり、その「礼服」は、神が用意し、与えて下さるものなのである。イエスをキリストと信じる信仰をもって、神の前に出ること、礼拝をささげること、それなしに、漫然と神の前に出ることのないように。

 「招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」(14節)この言葉の前に、私たちは、自分はどちらにいるのか、立つのかを問われている。礼服を着る人なのか、着ない人なのか。すでに着ているなら、神の国の幸いに入れられていることを、心から感謝したい。披露宴の喜びを感謝しつつ、この信仰に生き抜く思いを新たにしたい。もしまだ着ていないと、そう思う人は、キリストを信じるとは、神が用意して下さったものを、感謝して受け取ることであると、よくよく思い巡らしていただきたい。救いは神からの賜物として、神が用意して下さっていることを。ここにいる全ての者が、キリストを信じる信仰によって、神の国の幸い、神と共に生きる幸いを感謝できるように。