礼拝説教要旨(2015.03.15) 
人の目には、不思議なこと
(マタイ 21:33〜46)

 受難週の三日目、主イエスは、宮で多くの時間を過ごされ、ユダヤ人の指導者たちとの「権威論争」がきっかけとなり、彼らと厳しく対決しておられた。主は、全ての人に向かって、神の前にどのように生きているのかを問い、神の前に自分の罪を認め、悔い改め、神の前に立ち返ることを、神が待っておられることを説いておられた。けれども、祭司長や民の長老たちは、頑なな心を開こうとはしなかった。主は、彼らを突き放しておられたが、それでも、「もう一つのたとえを聞きなさい」と語っておられる。(33節)その日、なおも続けて、宮にいる人々に語りかけておられたのである。

1、祭司長や民の長老たち、ユダヤ人の指導者たちは、一端は引き下がる気配を見せたと思われる。その彼らに向かって、主イエスは、「もう一つのたとえを聞きなさい」と引き留めておられる、そんな光景である。神の前に、罪を悔い改めることなく歩んで来た人々に向かって、この後、どんな罪を犯すことになるのか、重大な警告を発しておられた。また先の権威論争の、確かな答えも告げておられた。今度の譬も、「ひとりの、家の主人」は「神ご自身」のこと、「ぶどう園」は「神の民イスラエル」「神の国」のことである。「農夫たち」とは、民の上に立てられた「指導者たち」、彼らの務めは、民を導き、神への「信仰」という「収穫」を、主人のために得ることであった。主人がぶどう園を造り、必要な設備を整えた上で、それを農夫たちに貸したのは、彼らを信用し、務めを任せたからであった。それで、収穫の時になって、自分の分を受け取ろうと「しもべたち」を遣わした。「しもべたち」とは、旧約聖書の「預言者たち」のことである。ところが、預言者たちは、人々の頑なな心に阻まれ、彼らが説く教えは退けられ、命を取られた者が数多くいた。主人が、別のしもべたちを遣わしたにも拘らず、「やはり同じような扱いをした」と言われる通り、預言者たちは、苦難の中で迫害されたのであった。(34〜36節)

2、「主人」である神が、「私の息子なら」と遣わされたのは、イエスご自身のことである。主人は、それまでに遣わしたしもべたちが、次々と殺されたり、ひどい目に遭わされていたと知っていた。それでも「私の息子なら、敬ってくれるだろう」と期待して、息子を遣わしている。それに対して、農夫たちは、息子が受けるはずの財産を手に入れようと、彼を殺してしまった。この譬を語った上で問いかけておられる。「『この場合、ぶどう園の主人が帰って来たら、その農夫たちをどうするでしょう。』彼らはイエスに言った。『その悪党どもを情け容赦なく殺して、そのぶどう園を、季節にはきちんと収穫を納める別の農夫たちに貸すに違いありません。』」(37〜41節)祭司長たちは、またもや、自分たちのことは棚上げして、譬に登場する「農夫たち」の悪業には、明確な裁きを下している。彼らでさえ、主人がいる限り、必ず、農夫たちの悪に、裁きが下ることが分かったからである。けれども自分と神との関係については、気づこうとしなかった。神に背いた人間の罪、神への反逆は、究極の滅びに行き着くまで、止まることはないかのようである。主は、これから先に起こること、十字架の死と、それに続く復活の出来事を暗示して、警告しておられた。神がおられることを忘れないように・・・と。

3、他人事のように譬を聞いていた祭司長たちに、主イエスは言われた。「あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。『家を建てる者たちの見捨てた石。それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである。』だから、わたしはあなたがたに言います。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられます。・・・」(42〜44節)詩篇の言葉を引用して、ご自分の十字架の死と、死からのよみがえりの後、神の国の祝福は、ユダヤ民族の枠を取り払われ、全世界のイエスをキリストと信じる民たちに受け継がれることになる、と預言された。バビロン捕囚から帰還した民が、エルサレムの宮の再建工事に当たった時、困難に立ち向かわねばならないことがあった。人々の侮りがあり、工事が進まないこともあった。かつての栄光と比べて、何とみすぼらしいことかと嘆く人々がいたからである。けれども、やがて宮は再建された。それと同じようなこととして、ご自分が捨てられ、十字架で殺されること、けれども、その死で終わらず、よみがえること、それは、人の目には、全く不思議なことであっても、「主のなさったことだ」と、そう言う他のない出来事が、必ず起こる・・・と。キリストの十字架と復活の前に、全ての人は、心の思いを明らかにされないではいられないのである。(※詩篇118:22-23)

<結び> 「祭司長、民の長老たち」と言われていた指導者について、45節では「祭司長とパリサイ人たち」と言われている。ユダヤ人の指導者たちは、その身分や会派は違っても、イエスに反対することに関しては、一致して対抗していた。そろって心を閉ざし、自分たちの問題点を指摘されていると分かりながら、一層敵対心を燃え上がらせていた。けれども、いざとなると群衆の反応を恐れて、行動を起こすまでには至らなかった。彼らにしてみれば、天の神が、ご自分の民に、「信仰」という「実」を結ぶことを願っておられることは、それなりに理解していたと思われる。その「信仰」の中身について、全く誤解したので、行き違いが起こったのである。神が人の心の内をご覧になること、神への真心からの「服従」、また「従順」が大事であることが、解らなかったのである。その頑なさの行き着く所は、裁きであり、滅びである。

 他方、私たちは、主イエスの十字架の死と、死からよみがえりの事実を知らされ、復活されたキリストを信じる信仰へと招かれている。人の目には、信じ難いこと、不思議としか言いようのない、復活されたキリストを信じるように招かれ、キリストを信じて、私たちも復活のいのちに生きる者とされている。今朝、このように、礼拝をささげている事実、これもまた、「人の目には、不思議なこと」、そのものである。私たちのどこに、力の源があるのか、世の人々には不思議と見えても、神にあって歩めるように祈りたい。神の目に良しとされ、神を喜ぶ群れとなって、復活のキリストを信じる群れとして、その信仰を証しし続けることを導かれたいのである。(※ペテロ第一2:1-10)