礼拝説教要旨(2015.03.08) 
罪を悔いる心こそ
(マタイ 21:23〜32)

 マタイの福音書において、受難週の記述は21章1節から始まる。その日、ロバの子に乗ってエルサレムの街に入られた主イエスは、群衆の歓喜の歌声に迎えられた。ユダヤ人の指導者たちは、それを苦々しい思いで見つめていた。それだけでなく、恐らく翌日、宮に入られたイエスが先ずされたことが、商売人たちを追い出すという、激しい「宮清め」であったことに、一層の敵意を抱くのであった。そして、彼らは、三日目になってもう我慢がならないとばかり、「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。だれが、あなたにその権威を授けたのですか」と、イエスに向かって問いただした。(23節)彼らは、宮を管理する当然の責任とばかり、権威を振りかざしていた。主イエスが人々から慕われ、このままでは自分たちの立場が脅かされると、苛立ちが増していたからである。(12〜17節)

1、「祭司長、民の長老たち」とは、当時のユダヤ人の指導者たちで構成する「最高議会(サンヘドリン)」を指している。正確には、「祭司長、律法学者、長老たち」の三者の代表によって、ユダヤ教の「最高議会」が構成されていた。その彼らが、意を決して「権威論争」を挑んでいた。しかし、主イエスは、その論争に対して、問を返して答えておられる。(24〜25節)「バプテスマのヨハネは、どこから来たものですか。天からですか。それとも人からですか。」イエスは、ご自分の権威は神からのものと答える代わりに、ヨハネの権威がどこからのものか・・・を、彼らに考えさせようとされた。そのようにして、彼らが心を込めて考えるべきことは何か、それに気づかせようとされた。神がおられ、その神が人に何を求めておられるのか、そのことに心を配るのは、全ての人にとっての、一番大事な事柄である。指導者たちは、ヨハネが人々に、罪を悔いること、神の前に立ち返ることを説いていた事実を知っていた。その上で多くの人が彼に従ったことを知っていた。それで、答えをうやむやにした。「わかりません。」答えは出せない、いや出したくないと。主イエスは「わたしも・・・あなたがたに話すまい」と、彼らを突き放された。(26〜27節)

2、生ける真の神の前に、私たち人間の心が問われていることについて、私たち人間の多くは、その事実を見ようとしないものである。神がおられる事実は認めたくない、「神が目の前に現れてくれたなら・・・」と、言い訳をする。今、神が目の前に来られたとしても、決して信じない、という位に、人の心は頑なである。ヨハネが「罪の悔い改め」を迫り、「神に立ち返ること」を勧めた時、心を打たれのは、指導者たちでなく、民衆の中の「取税人や遊女たち」であった。彼らは、今ここで心を入れ変えなければならない・・・と気づいた人々であった。その事実を悟らせるため、主イエスは譬を語られた。(28〜30節)「ある人」は「神ご自身」のこと、「ふたりの息子」は「ユダヤ人たち」のこと。「ぶどう園」は、「神の民イスラエル」を指し、「神の国」また「教会」を指している。神はユダヤ人たちに、神を信じ、「神の国」のために働くことを求めておられた。兄は、「行きます」と答えていながら「行かなかった」ことと、弟は、「行きたくありません」と言ったものの、「あとから悪かったと思って出かけて行った」ことを告げ、「ふたりのうちどちらが、父の願ったとおりにしたのでしょう」と、主は問うておられる。

3、自分自身のことでは、答えをうやむやにしたユダヤ人の指導者たちであったが、この時、ためらいなく「あとの者です」と答えている。主は、「あとの者」とは、「取税人や遊女たち」のことと明言された。(31〜32節)彼らは、ヨハネの説く「義の道」を理解して、罪を悔い改め、神に立ち返った。ところが、自分で自分を正しいとする人々は、「それを見ながら、あとになって悔いることもせず」、ヨハネの説く教えをないがしろにした。主イエスが、心から願っておられることは、神の前に、心を入れ変えることである。「あとから悪かった」と、罪を悔いて思い直すことである。神が、私たち人間の心をご存知で、あとになってからであっても、気づいた時、心から悔いること、やり直したいと、心から願うこと、その決断を、ユダヤ人の指導者たちにも求めておられた。神の前に立つ時、罪を悔いる心こそが、最も大切なもの、最も求められていることである。彼らは、主イエスの思いを、どれだけ聞き分けたのであろうか。けれども、それは、聖書を読む私たちの課題、そのものである。私たちの心は、神の前に、果たしてどのようであろうか。

<結び> 「兄は答えて『行きます。お父さん』と言ったが、行かなかった。」「弟は答えて『行きたくありません』と言ったが、あとから悪かったと思って出かけて行った。」(29、30節)この違いは、一体何によるのか。口先では、神に従うようでいて、その実、神を敬う気持ちのない信仰者と、神に従うつもりはないと公言しながら、あとになって心を変えて、神に従おうとした信仰者の違いである。本気で神を信じるのか、信じないのか、それほど大事なことである。聖く、また正しくあられる神の前に、私たちは立つことができるのか、神が私たちの心の中をご覧になったなら、私たちは顔を上げることができるのか、その自己認識が問われている。そして、正しい自己認識ができたなら、その時、自分の罪、神への背きを認めて、悔いること、心を入れ変えて、神を信じる者となること、そのような人生の方向転換をするように、主イエスは人々に語り続けておられたのである。「ふたりのうちどちらが、父の願ったとおりにしたのでしょう。」主は、この問いを、今朝、ここにいる私たちに語っておられる。あなたは「父の願ったとおりに」していますか・・・と。私たちは、今、生かされている限り、悔い改めて、神に立ち返るのに、遅すぎることはないことを、しっかり覚えていたい。心を頑なにせず、罪を悔いる心をもって歩むなら、いつも主が共にいて、私たちを励まし、支えて下さるからである。心を主に向け、主が私たちを見守って下さることを信じて。