月が替わり、今年は、この3月末の29日に受難週を迎える。そしてイースター、主の復活を記念する主の日は、4月5日である。その礼拝に向けて、主イエスご自身が、十字架に向かって歩まれたお姿や、語られた教えに心の目を向け、また耳を傾けてみたい。今朝は先ず、ヨハネの福音書から、「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。・・・」と語られた言葉に目を留め、主イエスのお心に触れてみたい。
1、主イエスがこの地上を歩まれたのは、およそ30年である。そして公の生涯として、人々の前に姿を現し、教えを語り始めたのは、30歳の頃であった。(ルカ3:23)その時から、3年ないし3年半の間、寝食をいとわず、多くの人々に教えを語り、奇跡を行い、苦しみ悩む人々、心痛む人々に近づいて、真の神の前に立ち返るように、神を信じて、神と共に歩む幸いを生きるように、福音を語り続けられた。当時の人々の多くは、神を信じることに、ほとんど疑いはなく、自分たちこそ天国にふさわしい者と、自分で自分を正しいとしていたが、それは大きな間違いであることを、主は指摘しておられた。神の前に立つなら、誰もが神に背いた罪人であり、聖く正しい神の前に罪ある者であることを認め、その罪を悔いることこそ肝心なことと、どこに行っても説いておられた。そのため、人々に教えを説き、当時の社会で地位を得、富を得ていた指導者たちと、主イエスの教えは対立していた。その対立と対決の最中に、この10章の教えは語られた。主が偽りの指導者として退けられたのは、律法学者たちやパリサイ人たちである。彼らは、自分たちは「全部分かっている、知っている。霊的なことも『見える。』」と、誇って止まなかった。けれども、彼らは「盗人で強盗」であると、主は、彼らを厳しく責めておられた。
2、主イエスが語ろうとされたのは、生ける真の神と神の民との関係は、羊の牧者と羊の関係によく似ていて、牧者と羊は、親しい信頼によって結ばれていること、その信頼関係は、容易く崩されることはないものということであった。牧者が羊に名をつけて呼び、羊も牧者の声を聞き分ける関係は、神と神の民との関係においても同じく、決して揺るがないものであると。神の民自身も、盗人や強盗に連れ去られることはなく、しっかり立つことのできる民たちであることを、主イエスは宣言しておられた。(1〜5節)教えを聞いていたのは、弟子たちも含めた多くの人々であった。その時、弟子たちは、まだ十分に教えを聞き分けることができなかった。それで主イエスは、その教えを解き明かすように語り続けられた。「わたしこそ、羊たちを救いへと招く門である」こと、「わたしを通って救いに入る羊は、安きを得て、豊かに養われる」こと、「盗人は、いのちではなく死をもたらすが、わたしは、羊にいのちを得させるために来た」と。そして「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。・・・」と言われた。良い牧者と盗人との違い、また雇い人との違いは、羊のことを本当に心にかけているかどうか、そのことに現れると言われた。羊のためにいのちを捨てる牧者こそが、良い牧者と。(6〜13節)
3、主は、ご自分が何のために世に来られたのか、そのことを心にかけておられた。恐らく、片時も忘れることなく、また見失うことなく、贖いの死、身代わりの死を遂げるために、この世に来られたことを思い巡らせておられた。だから、「わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です。また、わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます」と言われた。そのご自分の使命は、もっともっと広がりがあり、救いの恵みは、全世界に広がることも語っておられる。いのちを捨てることについて、それは強いられてのことではなかった。自分から進んでのことであり、全く確かな、自己犠牲の死が、多くの人の確かな救い、いのちへの道を開くことを明言しておられる。(14〜18節)主イエスは、この時、まだ十字架の時は来ていないことと思っておられた。けれども、その時が必ず来ること、その時が来たら、自分はどのようにするのか、はっきりと心を定めておられた。そして、主イエスは、十字架へと進んで行かれたのである。良い牧者である主イエスがおられるので、私たちはこの方に従うのである。
(※ペテロ第一2:22-25)
<結び> 詩篇23篇は、王となる前、羊を飼っていたダビデが、自分と神との関係を歌ったものである。「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。主は私のたましいと生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。・・・」神、主が私の羊飼い、牧者であられるなら、私は全く幸いであり、何一つ不足することはない・・・と、心からの感謝に溢れて歌っている。羊たちは、自分で自分のいのちを保つのは不可能な生き物であった。羊飼いがいて、安全が保障され、そのいのちのため、緑の牧場へと連れ行かれるのである。羊たちの幸いは、羊飼いの手の中にあった。それと同様、神と人間の関係、神と神の民である私たちの関係において、幸いや祝福は、全く神にかかっているのである。どうにもならない危機からの守りは、神の御手の中にある。この神に全幅の信頼を寄せる信仰を与えられるなら、私たちは、日々、心を強くされて生きることができる。ダビデは心から歌っている。「私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯はあふれています。まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」良い牧者に支えられ、導かれるなら、必ず幸いな日々が約束されている。感謝をもって歩ませていただきたい。本当の幸いを決して、見失うことなく!
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