「主の祈り」、そして「ウェストミンスター小教理問答」の学びは、最終回となった。最後の問答は次のように締めくくられている。問107 「主の祈りの結びは、私たちに何を教えていますか。」答「(「国とちからと栄えとは、限りなく、なんじのものなればなり、アーメン」という)主の祈りの結びが私たちに教えている事は、私たちが、祈祷における励ましを神だけから受けるということ、また祈祷において、神に国と力と栄光とを帰して神を賛美することです。また、自分の願いと聞かれる確信とを証言して、私たちは『アーメン』と言うのです。」この最後の言葉は、主イエスが弟子たちに教えられた時、語られなかったものかもしれない。けれども、教会が「主の祈り」を祈り続ける時、全くふさわしい言葉として祈り、神に賛美と栄光を帰すため、この言葉をもって祈りを締めくくった、と考えられている。代々の教会は、祈りを聞かれるのは、ただ生ける真の神だけ、と信じて祈り続けているのである。
1、私たち人間は、祈りに関して、祈る私たちの熱心が、きっと神を動かすに違いないと、そのように思うことがある。これは祈り以外のことにも当てはまり、一般的な考え方の多くが、その傾向にある。(※「これだけ練習したから、失敗するはずはない・・・」等々。)けれども、真の神だけが、本当の意味で祈りに答えることができる方である。天の神だけが、私たちの必要をご存知であり、必要をふさわしく満たして下さる方である。私たちの罪を赦し、私たちを悪から守り、試練の時に支えて励まして下さるのは、御子イエス・キリストを遣わして下さった、生ける真の神以外にはおられない。このお方だけが、全世界を治めておられるのである。全てのことを成し得るお方、全能の神、力ある神である。そして、このお方だけが栄光に富む神、私たち人間を含めて、全被造物が、この方に栄光を帰すのがふさわしい、真の神なのである。代々の教会は、そのように神に賛美と栄光を帰すようにして、主の祈りを、心から祈り続けてきた。私たちは、その祈りを、同じように心を込めて祈り続けている。私たちは、ただ自分の願いを祈るのではなく、神が事を成し遂げて下さるように祈り、神への信頼と服従を言い表すことになる。
2、私たちクリスチャンが祈るのは、生ける真の神がおられるからであり、神が神として、生きて働いておられるからである。そうでなければ、私たち人間がいくら祈っても、それは空しい繰り言でしかなくなる。だから主イエスは、「異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけませ。・・・」と語られた。(6:7-8) その上で、「主の祈り」を教えて下さったのである。先ず、神が神としてあがめられること、神の支配が全世界に満ちること、そして、神のみこころが、この地上で実現することを祈り、その次に、私たち人間の必要のため、心を込めて天の父に願うようにと。真の神が、私たちの必要の全てをご存知だからこそ、その神に祈るのが、私たちクリスチャンの祈りである。ただ自分の願望を言い募るのではない。神を信じるからこそ、神に祈り、神の答えを待つのである。神がおられるので、私たちは励ましをいただき、また祈る勇気をいただくのである。「国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです」と祈る時、私たちは、神への信頼と、心からの賛美を言い表すことになる。神への全幅の信頼を言い表している。神ご自身について、私たちはその全てを知ることはできない。それでも、私たちはあなたを信じます・・・と。(9〜13節)
3、そして私たちは、最後に「アーメン」と言って、祈り終える。「アーメン」とは、「真実に」「本当に」、また「誠実な」を意味する、へブル語に由来する言葉である。祈りの最後に「アーメン」と言う時、「本当です」、または「その通りです」、「その通りに成ると信じます」との意味を込め、祈りを締めくくることになる。普段、私たちが祈る時も、願っていることが聞かれますようにとの確証と、願っていることが必ず聞かれるとの確信の確証の意味を込めて、やはり「アーメン」と言うのである。「また、自分の願いと聞かれる確信とを証言して、私たちは『アーメン』と言うのです。」時に、私たちは半信半疑で祈り続けることがある。信じ切るのは、とても難しく、疑いながら祈っている・・・、そんな私たちである。疑ったことはない・・・などとは、決して言えない。それでも、私たちは祈ることを許され、祈るように勧められている。「だから、こう祈りなさい」と、主イエスは言われた。そして、信じて祈るよう、励まされている。「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。」(ヨハネ第一5:14-15)
<結び> 「主の祈り」を学び終えるにあたり、私たちの信仰の在り方を、再確認させられる。私たちの信仰は、果たして「神第一」、あるいは「神中心」となっているだろうか。神を心からあがめ、神に従いたいと願いつつ、自分に都合よく、神を呼び出し、自分にとっての幸いだけを求めていないだろうか。生活の全てにおいて、神が私を導いて下さることを、心から望んでいるだろうか。私たちが、はっきり信仰に立つには、この世で生きている全ての領域において、神に祈り、神の教えに聞き従い、神が全てのことにおいて、最善を成して下さることを信じ、神を賛美し、神に栄光を帰して歩むことが大事である。私たちを造り、私たちを生かし、私たちの罪を赦して、神にあって、正しい道を歩むよう導いて下さる神がおられることを、はっきりと覚えて歩みたい。天の神が、私たちに救い主イエス・キリストを遣わし、キリストと共に歩むよう導いておられる。そして、その主イエスが祈りを教えて下さったのである。「ただ神に栄光あれ!」との思いをもって、「国と力と栄えは、とこしえにあなたのだからです。アーメン」と祈り、心を込めて主の祈りを祈り続けることを導かれたい。
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