「主の祈り」の第六の祈り、最後は、「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください」である。「日ごとの糧」、「罪の赦し」、そして「悪からの守りと助け」と、主イエスは、私たちの祈るべき課題を、はっきりと教えて下さった。 問106
「第六の祈願では、私たちは何を祈り求めるのですか。」答「(「我らをこころみにあわせず、悪より救い出だしたまえ」という)第六の祈願で私たちが祈る事は、神が私たちを罪の誘惑から守ってくださるか、私たちが試みられる時に私たちを支えて助けてくださるように、ということです。」この祈りを、心から、また本気で祈れるのは、いったいどのような人なのか、よくよく考えることによって、大切なことかが明らかになると思われる。
1、私たちは、「主の祈り」の後半において、私たち人間の地上での生活のために、必要の一切が神の御手の中にあることを信じて、先ず、「日ごとの糧」のために祈る。また、神に対する人間の罪が、本当に赦されることなしに、私たちの心には平安はないので、キリストにあって赦された者として「罪の赦し」を祈り続ける。そして、罪を赦された者だけが、罪を罪と自覚し、罪と戦うことができるので、「罪や悪からの守りと助け」を、心から祈り求めることになる。「主の祈り」の祈りの順序は、とても意味深い。第五の祈りをささげ、「罪の赦し」を確信し、罪と戦う勇気や知恵をいただいて、第六の祈りをささげることができる。私たちは、どんなに善い行いを積んだとしても、聖い神の前に顔を上げることはできないからである。神に背いた「罪人」、神に対して「負いめ」のある存在、それが私たちである。神は、そのような私たちを、御子イエス・キリストの十字架の身代わりの死によって、滅びからいのちへと救い出して下さった。私たちは、罪から解き放たれ、罪の言いなりになることのない者、神の民として、新しいいのちに生きる者とされている。その赦しの恵みに励まされて生きるので、この第六の祈りを祈るのである。
2、罪との戦いは、私たちを罪に誘う「誘惑」として迫ることがあり、また、必ずしも「誘惑」として迫るわけでなく、人生における「試練」あるいは「試み」として迫ることがある。私たちは、どのように対処すべきか、大いに戸惑うことになる。けれども、神は、決して私たちを、罪へと「誘惑」されることはない。罪へ誘うのは、サタンのすること。私たちは、神の守りと助けを祈り求め、この第六の祈りをささげることが大事となる。(12〜13節)私たちが心すべきは、「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。愛する兄弟たち。だまされないようにしなさい」との、警告を聞くことである。(14〜16節)「試練」の時、神を仰ぐのか、それとも巧妙な惑わしに心を奪われてしまうのか、いずれの側に立つのか、大事な選択を迫られる。自分の弱さを知る時、私たちは神を呼び求めるに違いない。しかし、自分の力を過信する時、自分で誘惑に立ち向かおうとするかもしれない。だからこそ、「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください」と祈ることは、とても大事となる。
3、「やっぱり、祈りは弱い人のするもの・・・」、「宗教や信仰は、弱い人の神頼み・・・」と、そのように言う人は多い。けれども、私たち人間の本当の姿を知ること、これなくして、決して前には進めない。私たち人間は、果たして強いのか、それとも弱いのか。善い者なのか、悪い者なのか。善良な人は必ずいる・・・と、心から言いたい。でも、この地上で、何とむごいことが繰り返されている。どうして? 答えを見出すのは、ほとんど不可能と思うくらいである。自分一人で悪と戦っても、一体何が生まれるのか・・・と、絶望しそうになる現実がある。自分自身の戦いさえも、勝利が続くわけでなく、誘惑に負け、自分に失望する。自分の無力さ、また無能さに打ち負かされるからである。けれども、罪との戦いに負けること、自分に失望したり、絶望することを、決して恐れることはない。絶望するところに、道が開けるからである。私たちの、自分ではどうにもならない「罪の赦し」のため、主イエスは、十字架で贖いの死を遂げて下さった。罪の刑罰を、身代わりに受けて下さったのである。その「罪の赦し」を感謝し、救いの恵みを覚えて、罪や悪からの守り、そして助けを求め続けることによって、私たちは、やがて天の御国での、救いの完成を待ち望むことになる。
<結び> 罪との戦いはもちろん、「試練」や「誘惑」は、できるだけない方がいい・・・と、そう思うのは自然である。また、信仰を持つ前は、罪について、余り考えずに過ごしていたのに、信仰を持って歩む今、罪が気になり、かえって心が安まらない・・・と言うのも事実である。けれども、罪を罪と自覚できることこそ大事なこと、尊いことである。罪の奴隷から解き放たれ、義の奴隷、神の民、神の子とされたので、罪に立ち向かえている確かな証拠である。だから、この第六の祈りをささげて、日々、神の守りと助けを得て生きることが、何よりも大切となる。実際、神の守りと助けによって歩むことが、どれだけ幸いであるのか、私たちは気づいていないのかも知れない。(私は・・・なのかも)私たち人間は、決して強くはなく、弱く、愚かである。ちょっとしたことに脆くて、それでいて、強がっているのではないか。主の祈りは、この最後に祈りにおいて、神にこそ頼ること、神の大いなる御手の中で、神に守られて生きる幸いを、見失わないよう、私たちの心を神に向けさせてくれる。だから、神に頼る幸いを覚え、この祈りを祈り続けることを学びたい。そのような信仰を導かれたい。私たちは弱くても、神にあって強いことを忘れずに。(ローマ8:31-34、ピリピ4:12-13)
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