礼拝説教要旨(2015.02.08) 
聖所の柱に  
(黙示録3:10〜13 柴田敏彦師)

<序> 前回は、七節から九節を「少しばかりの力で」と題しまして、フィラデルフィア教会の忠実な信仰の戦いぶりを見てきました。
この苦難の中にある教会に主は言われます。十節に、
 あなたが、私の忍耐について言ったことばを守ったから、私も、地上に住む者たちを試みるために全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。
と。主に愛されていたフィラデルフィアの教会に、この主のことばです。主のご愛の再確認となったことでしょう。
黙示録が書かれた一世紀末、これらの手紙が小アジアの教会に書き送られてから程なくして、九八年にトラヤヌス皇帝が即位すると、それから一世紀ほど変わることなく続く、キリスト教への攻撃が本格的に始まります。三十年ほど前のネロの迫害などは、まだまだ序の口、単発的で、局地的でした。しかし、今、ローマ帝国、この巨大な国家との命がけの戦いが近づいていたのです。それが、この時の教会の置かれていた状況でした。
 主は、「あなたが、私の忍耐について言ったことばを守ったから」と語り、まず、この教会がすでに味わった戦いでの忠実ぶりに触れます。二度目です。先にも八節で、「あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである」とありました。この教会の忠実な歩みをしっかりと見守っていて下さった主イエスです。しかも、「わたしの忍耐について言った言葉」と、特別に「忍耐」と言われます。耐え忍ぶことを教えた主の言葉のことでしょう。あるいは、主ご自身の忍耐、ゲッセマネで、十字架で、屠り場に引かれる羊のように耐えられた主のお姿を教える言葉とも受け取れます。どちらにしても、実際に歩まれた足取りを通して主は私たちに生き方を教え、また、言葉をもっても教えて下さいました。キリスト者が迫害に遭うのは、むしろ普通のことなのでして、小さくも純粋に信仰に歩んでいたフィラデルフィアも、その例に漏れずでした。「忍耐」して、今、信仰をもって歩んでいる彼らだからこそ、主の目に尊いのです。
 それで、「わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。」と主は励まし、約束を与えていて下さいます。忍耐が実を結ぶのです。主が守って下さるのです。
 しかも、「わたしも」と切り出されます。「あなたがたがことばを守ったから」、「わたしも、あなたがたを守ります」と主は言われます。この「わたしも」の「も」という一言、重要な一文字です。ただ一つ、私たちがみ言葉をどう取り扱ったかが重大なのです。私たちがみ言葉を斥けたとき、神は私たちを斥けられます。「わたしも守る」との約束は、私たちがみ言葉を守ることと密接に繋がっているのです。なぜなら、み言葉に従い行くことで、私たちが闇の子、サタンの手の内のものでなく、神の陣営に属する者であることを示しているのですから。主が、ご自身に付き従う者をお見捨てになるはずなどないのでした。
そして今、一嵐乗り越えたフィラデルフィアには、さらに大きな嵐が来る。全世界規模の「地上に住む者たちを試みる」ための大嵐です。クリスチャンに対してというより、地上に住む者たちを試みるために神が送られる嵐です。地上の住民たちが試みられていくとはどんな形なのか不明です。試練の中で、救いを求めて立ち返るか、拒み続けるか、との試みでしょうか。とにかくも、全ての者が試みられていく中で、フィラデルフィア教会は主に守られる。まさにヨハネ十七章十四節の羊飼い、大牧者キリストのお姿です。僅かの力で、踏ん張る教会、フィラデルフィアを「わたしの羊」と言ってくださる。神の声を聞き分けてついて行く者たちに守りの約束あり。今の忠実な一歩一歩がやがて苦難の日の中で、大勝利に結びつくのです。

十一節、
 わたしは、すぐに来る。あなたの冠をだれにも奪われないように、あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。
 「わたしはすぐに来る」と主は言われる。この一言に慰めを覚えますか。それとも恐れ、戸惑いですか。たしかに、皆がみな、同じように主をお迎えするわけではないのです。エペソの教会に、「悔い改めることをしないならば、わたしはあなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取り外してしまう」と主は言われました。警告です。ペルガモの教会には、二章一六節で「悔い改めなさい」を迫り、「そうでないなら、わたしは、すぐにあなたのところに行き、わたしの口の剣を持って、彼らと戦う」と告げます。主自ら教会を正そうとされます。サルデスの教会には「盗人のように来る」と三章三節で言われました。「わたしはすぐに来る」と、同じ主が言われるのですけど、迎える教会の様子で主のお姿は、突然に教会を訪れるさばき主とも、み口から両刃の剣を牙のように剥き出し挑まれるお方とも変わる。はたして、苦難の中のフィラデルフィアは、どんなお姿の主を迎えることになるのでしょう。
 あなたの冠を誰にも奪われないように、あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。
と、主は言われます。慰めの主のお姿でした。「主が来られる」その日、その時、フィラデルフィアの苦難の時は終わる。その時まで、持ちこたえたなら、栄冠を頂くものとして神の国に迎え入れられる。ここには、人々を恐れおののかせる主のお姿はなく、「良く耐え忍んできましたね。」と、全ての重荷を降ろさせ、冠、御国の民の栄誉を与えて下さるやさしいお方の姿となるのです。
ただし、「あなたの冠を誰にも奪われないように、あなたの持っているものをしっかり持っている」ことが条件でした。主は、そのために先の十節で、試練の時には「あなた方を守ろう」とおっしゃって下さっていました。主はフィラデルフィアの小さな群を、そのふところにしっかりと抱いて、試練の中を守り通して下さる。しかし、「今持っているものをしっかり持っている」ならばなのです。この小さな町にも劇場や競技場があり、祭り、競技も有名でした。それで、この冠も、黄金のではなく、あの月桂樹のリースのような栄冠のことです。「勝利の栄冠」です。これを奪われないようにしなさい、と主は言われる。これを失ったら、死!滅びでした。
しっかりと、今の立場に留まり続けなさい、と主は言われるのです。今まで、懸命に守ってきた信仰、み言葉を守りキリストを否まなかった生き方を保ち続けて、冠を失うことのないようにしなさい、と主は言われるのです。今持っている「信仰」で勝利の冠に到るのです。冠が奪われるか奪われないかは、今、持っているこの信仰を、これからどう持ち続けるかで決まるのです。あのエサウのように、一杯のあつもので長子の権利を売り渡した者のようにではなくて、今、持っている信仰を大事に、大事に管理して、持ち続けることで、冠に至るのです。
主が来られる時まで、しっかりと持っているべきものは信仰。今、信じていることはもちろんのこと、しかし明日もと信じ続けて行くことこそ大切。主が来られるその時、私たちがどうなのかで決まるのです。昔は、若い頃は信じてましたから、ご配慮下さい、とはいかない。十二使徒の教訓という書には「あなた達が、最後の時に全きものであるという証を得られないなら、あなた達のこれまでの信仰の生涯の全ての時は無効になるであろう」とあります。確かに、その時信じていないなら、今、昨日、信じていたことが何になろうか? 最後までなのです。キリストが来たりたもうその日まで、誰にも冠を奪われないように、持っているものをしっかり持ち続けること、信仰の忍耐こそが勝利への道なのです。

十二節、
 勝利を得るものを、わたしの神の聖所の柱としよう。彼はもはや決して外に出て行くことはない。
と、復活のキリストは、フィラデルフィアの教会に約束します。小さな群でした。戦いも激しかったが、一生懸命の教会でした。その教会に、勝利を目指して最後まで忍耐し信仰を守り通すように奨めて、「聖所の柱」にとの約束を差し出されます。神殿の柱とは違います。聖所です。神殿の中でも大奥にあり、祭司しか入れなかった聖所です。神ご自身のご臨在に一番近い所の柱とする、と言われます。神殿の中でこれ以上に栄誉ある場所は他にないでしょう。また、聖所の柱は全体が金箔で覆われていました。その輝きにもこの小さな群がたとえられているのです。この約束は、ご自身の一番そば近くに召して下さるということです。有り難い心配り!それも「決して外に出ていくことはない」と言われて、この地震の多いフィラデルフィアの住民のことですから、この言葉には永久の安心を、約束として受け取ったことでしょう。
 神様との関係の確かさです。二度と切れない恵みの中にいるのです。グラッと来ても、慌てて飛び出すことはない。それに、「外に出ていくことはない」とは、ユダヤ人の会堂から閉め出されていた教会にとって、神の聖所をこそ自分たちの場所として頂いたことになります。会堂を出されても、未練を残す必要もないのです。主は、このすばらしい場所をこそ用意してくださっているのですから。それも、あのエペソの教会でなくて、このフィラデルフィアが聖所の柱というのです。この懸命な群にこそ、このすばらしい場所をとって置いて下さる主の心遣い!私たちの主イエス様はこういうお方なのです。

 しかも、これだけでも十分と思われるのに、さらに、三重の名をもって、この群を励まされるのです。もう、目指すところをしっかりと見つめて、一人も、足を踏み外すことなく、信仰を全うするようにとの主のお心遣いでしょう。十二節後半、
わたしは、彼らの上にわたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、わたしの神のもとを出て天から下ってくる新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名を書きしるす」
と、あります。
まず、「わたしの神の御名」です。父なる神の名がしっかりとサインされる。神のものであるとの宣言です。人気歌手や野球選手に、Tシャツなどにサインしてもらって大喜びの若者たちを見ます。この身に神様のサインですよ。天と地を創造されたお方のサイン。どんな気持ちですか。想像も出来ません。
しかも、さらにもう一つの名、神の都エルサレムの名前が書かれて、私たちのいわば本籍が天の都エルサレムにあるということになる。これも、やはり、勝利を得て天に凱旋した者への約束です。地上を離れて、天の都に入って行く。門をくぐったとたんに、私たちに書き込まれるエルサレムの名前。神の国の市民たることの決して消えない保証なのです。
この第二の名前に加えて、もう一つ。イエス様の名前とは言っても、「わたしの新しい名を」とありますから、まだ私どもの知らない名前です。これが書き加えられる。新しい名を記すとはどんな意味を持つことがらなのでしょう。昔の名ならもう頂いております。クリスチャンと言う名前を。しかし、新しい名です。それは、キリストご自身をもっとはっきりと知り、交わりの中に入れて頂くということでありましょう。名を記すことは自分を明らかにすることですから。今はおぼろげにしか見ていないお方を、はっきりと知ることになる。キリストの「新しいみ名」を記されて、私たちは救い主をますますさやかに知ることとなる。もちろん、キリストの名を記されるとは、キリストのものであると言うことにもなりますよね。
さて、この三つの名前はお気に召しましたか。こう、別の名前ばかり書き込まれて、自分の名前はどうなるのだろうと心配になる方はおりませんか。でも、ここが主を信じる者たちの行き着くところなのです。記されるのは、自分の名前ではなく父なる神の名、さらに、この世の都の名前でなく新しいエルサレムの名前、そして、サタンの名前でなくキリストの名前なのです。よくよく自分が何なのかを、何だったのかを、こんな約束から考えさせられます。柴田敏彦との名で呼ばれ、自分でも、これを名乗って生きている。しかし、その時、フィラデルフィアの教会が勝利を得て、天に凱旋する時、一人ひとりに、神の名が記され、天のエルサレムの名が記され、重ねてキリストの新しい名が記される。地上での何の誰がしという名前、それがどんなに有名で、世界に知れ渡った人物であろうとも、もはや、その地上の名前など全く通用しない世界がここにあるのです。そこでは、神の名が記され、キリストの名と神の都の名とが記される。これに代わるもの無し。代用できる地上の名はなし。いや、天に戻ってからでなく、すでに、今、地上で私たちは聖霊による証印を押されていますし、地上では旅人、寄留者と自認していますし、キリストの名を帯びてキリスト者、クリスチャンと呼ばれているのです。これが地上だけのものでなく、永遠のものに通じていたことを知って、今、主のものであることの大切さを覚えさせられます。
それにしても、「自分が」「自分が」というこの世界に生まれキリスト者となり、「自分が」となったり「神が」となったりで揺れ動く地上での生き方が、天の御国では、神の名、キリストの名、神の都エルサレムの名という神一色の世界に変わるのです。そこを目指して、ますます、聖く、整えられていきたいと願います。神にのみ栄えあれ、との世界を目指してです。

十三節、
 耳のある者は、御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。
 これで、フィラデルフィアの教会宛の手紙を読み終わります。何が印象に残りましたか。「あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。」と、戦いぶりが紹介された教会でした。七つの教会の中で、一番しっかりと立っていたのがこの僅かの力をもつだけのフィラデルフィアの教会でした。堅く立っていてもよさそうな大きな教会の方が倒れかけているとの有様でした。あのエペソにして、しかり。初めの愛を失っていた。ペルガモにテアテラの教会は偽の教えに振り回されていたし、サルデスは「死」の教会、それに次のラオデキヤの教会はと言えば、外見上の豊かさにもかかわらず、貧しく、盲目で、裸でと言われているのです。なのに、この群は、主の賞賛に値するほどに懸命で、模範的な足取りを残していたのです。「わずかばかりの力」でも、見習うべき教会、弱くわずかの力の教会の先輩となったのです。「わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかった。」とその忠実さを主自らが認めて下さった教会に、主は最後のことばを送ります。「耳のあるものは御霊が諸教会い言われることを聞きなさい。」と、いつもの指示です。
エペソやサルデスと同じ言葉であります。何の変わりも違いもないのです。このフィラデルフィアの教会にですよ。懸命に、忠実に歩んでいる。やがて、艱難の中を通ろうとしている教会なのです。他とは違って、こんな警告などなくともやっていく教会でしょう。
「御霊が諸教会に言われること」をと命じられる前から、主のことばを守り通して来たのです。もし、なお、彼らに必要だとしたら、彼らに対する祝福に満ちた約束故でしょうか。余りにも豊かな約束に足もとをさらわれないように、地道に、み言葉に聞いてさらに歩み続けることこそが大切なのです。どんなに、すばらしい御国での約束も、辿りつけない者には、無縁のものとなってしまうのです。御霊の語るみ言葉に聞いて歩んで行く。この緊張を失わないでいなさい、との主の御心かなと思うのです。
もちろん、今読む私たちへのメッセージでもあります。七つの他の教会も、この諸教会の一部、彼らにも、また聞くように、ということでしょう。何を? フィラデルフィアに語られたメッセージから何を、今の私たちの信仰のために聞けば良いのか? それは、主の守りでしょう。主の配慮でしょう。フィラデルフィアの歩みが確かに報われている、との現実の姿でしょう。この小さな群を取り扱われる主の心遣いをみているとうれしくなります。こんなにも、励まし、力づけ、約束をしっかりとつかませ、まっすぐに歩ませようとして下さっているのですから。わずかな力で立つ教会とその背後でこれを支えていて下さる主のお姿がここにはあります。安心します。迫害と苦難の中に立てるかは、強さや大きさでは決まらなかった。弱くて小さいと倒れるということでもなかったのでした。だから、強い、大きいで安心ともならないのです。この主の守りと、励ましの中で、教会は立つのです。でも、名を否まぬ忠実さを示しつつ、彼らも戦っていた。その一所懸命の信仰をキリストがしっかりと守ってくださる。これがフィラデルフィア教会の姿です。
それも、このお方は、「真実な方」と名乗って、ダビデの鍵を持つお方でした。「開くと、閉じる者がなく、彼が閉じると誰も開く者がない」鍵の持ち主によって、小さな教会は、しっかりとすべてのものから守られていたのです。誰一人この権威に逆らうことは出来ないのです。死も滅びも手を出せぬキリストの鍵の力です。
私たちは、みことばに導かれて、天の恵みに与る者となるのです。「開けておいたから、さあ、入りなさい」と、戸口にまで私たちを導くのは主のみことばです。御霊の語ることばに聞きながら、一歩一歩、今聞き従うことで到達できるのです。聖書を開いて、み言葉に聞く。行い、歩み、生きる。こうして、主が開いて待っていて下さる御国の門に入っていくのです。きょう信じて生きることで、また、一歩、天の御国に近づく。強いこと、大きいこと、が必要なのではなくて、日々、聞き従って行くことこそが大切なのです。聖霊の内なる光にしっかりと導かれて、です。