「主の祈り」の第五の祈りは、「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました」である。「負いめ」とは、返すべき責任のある「負債」のこと、神に対する私たち人間の「罪」が、神に対する「負いめ」であり、「負債」であることを覚えて祈ることが求められている。小教理問答105
「第五の祈願では、私たちは何を祈り求めるのですか。」 答「(「我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」という)第五の祈願で私たちが祈る事は、神が、キリストのゆえに、私たちのあらゆる罪を一方的にゆるしてくださるように、ということです。私たちは、神の恵みによって他人を心からゆるせる者とされているので、なおさらこれを求めるように奨励されているのです。」「主の祈り」を祈る時、私たちの心が一番探られ、また多くの誤解や、言い逃れもされる、そんな祈りである。
1、私たち人間は、「神に対して罪がある」と言われても、一体自分と何の関係があるのか分らず、自分のこととして「罪」を理解するのは難しい。神に背いて以来、神なしで生きようとしているので、「罪」を「罪」と理解できないのが普通である。主イエスは、この時、「罪」を「負いめ」という言葉で語られた。神に対する「罪」は、代価を支払って返さなければ解決しないもの、「負債」という深刻なものであることを教えようとされた。また「主の祈り」は、誰もが覚えて祈ればよいもの・・・というより、主イエスをキリストと信じた弟子たちが、心から祈る祈りとして教えておられた。その祈りを教えられた時には、まだ十字架の死は成し遂げられていなかったが、それでも、十字架でご自分のいのちを代価として支払うこと、罪の身代わりの死を遂げることを先取りして、その救いに与った者たちが、罪の赦しを感謝して祈り続けるように、「主の祈り」を教えておられたのである。弟子たちが、神に対する自分では払いきれない代価を、主ご自身が十字架で支払って下さったことによる救い、罪の赦しという素晴らしい救いを心から感謝して、「私たちの負いめをお赦しください」と祈るように・・・と。
2、第四の祈りで、「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください」と祈る私たちである。けれども、与えられた「日ごとの糧」を、自分のためにだけ使ったり、時には無駄にしたり、神に対して、当然の感謝を忘れたりして、それで平然としていることはないだろうか。神に対する「罪」、そして「負いめ」は、日々に積み重なっているのが、私たち人間の本当の姿である。ところが、私たちの神に対する「罪の自覚」は、はなはだ稀薄である。それでいて、人との関係において、私たちはとても注意深い。人から何かをもらったら、すぐにでも何かを返さねば・・・と、とても義理堅い。借りたお金については、必ず返さなければならないのは当然としても、それ以上に、借りを残さないようにと心掛け、お返しをするまでは安心できないでいる。それなのに、神との関係では、「義理」とか「恩義」には思い至らず、返すべき「負債」など全く思い及ばない。そのために私たち人間は、なかなか本当の安心を得られず、心からの平安や喜びを見出せないでいる。人間の心は、日々の生活の糧が満たされるだけでなく、心が神によって満たされこと、罪の赦しをいただいて生きることが、何としても必要である。罪の赦しをいただいてのみ、私たち人間は、本当の安らぎを得ることができるのである。
3、ところで、「私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました」と祈ることに、戸惑いを覚える人が多い。「我らがゆるすごとく・・・」と祈る時、特に戸惑いが溢れる。これは、「私たちが赦しました。だから・・・」ではなく、「私たちも・・・赦しました」と、祈る私たち自身が、「赦し」の困難さを経験しつつ、神の赦しの恵みや、あわれみの深さを知る者とならせて下さいと祈ることである。私たちは、実際に、人を赦せない自分の心の内を思い知らされる。そのことで、また心は激しく痛む。しかし、主イエスはこのように祈るよう勧めておられる。弟子たちが、そして私たちがこのように祈ることによって、天の父が、御子イエス・キリストによって、罪の代価を十字架で支払って下さったことを、心から信じて、感謝をもって生きるように、そして赦された者として、他の人を心から赦せる人となって歩むように、そのような人となって、神の栄光をあらわすよう、世に送り出して下さっている。私たちは、罪を赦されている幸いを、主の祈りによって、いつも覚え続けるのである。
<結び> それでも、この第五の祈りの難しさがある。私たち人間の罪の深さ、罪ゆえの弱さや愚かさは、とても自分の自覚や努力で、改善できるものではない。「神によって、罪を赦されたからこそ、他の人を赦すことができる」、あるいは、「人を赦せない限り、神の赦しをまだ知らない証拠」と言われるなら、ただただ、自分の心の狭さを思い知るばかりである。けれども日々の生活において、神によって、罪を赦されて生きていることを自覚し、感謝をもって、心を低くすることが導かれるなら、それは、確かに神の愛とあわれみによるものであると、心から神を賛美したい。主イエスは、その大切なことを教えるため、祈りに加えて語っておられる。「もし人の罪を赦すなら、あなたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。」(14〜15節)それほどに、この赦しを求める祈りの大切さがある、ということである。私たちは、神の赦しがあって、今、生かされているのである。だから、互いに赦し合うことを教えられ、共に生きることを喜び合い、神の栄光をあらわす者となることを、確かに導かれたい・・・と、心から願いたいのである。
(エペソ4:32、マタイ18:21-35)
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