礼拝説教要旨(2015.01.25) =ウェストミンスター小教理問答<104>=
 神の祝福を楽しむこと 
(テモテ第一4:1〜5)

 「主の祈り」の前半、「御名があがめられますように」、「御国が来ますように」、そして「みこころが天で行われるように地でも行われますように」との祈りは、天の神ご自身に目を向け、心を込めて、神のために祈るものである。祈る私たちが、本当に神を信じて、神を喜んでいるか、そして、心から神に従いたいと願っているのか、私たちの信仰が問われている。後半は、私たち人間の必要に関連して、私たちが何を祈るのか、祈りの中身が明らかにされている。問104「第四の祈願では、私たちは何を祈り求めるのですか。」答「(「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」という)第三の祈願で私たちが祈る事は、神の一方的な賜物のうちから、私たちがこの世の良き物の正当な分を受け、それによって神の祝福を楽しむことができるように、ということです。」

1、「主の祈り」の後半の三つの祈りは、前半が「神」ご自身に関していたのに対して、明らかに「人間」に関すること、祈る私たち自身の、現実的な必要についての祈りである。人を造り、人を生かして下さっている神は、私たち人間の、日々の必要をご存知だからである。その第一に祈ることは、「私たちの日ごとの糧を今日もお与えください」であり、この地上で生活する上で、一切が神からの賜物であって、神が「良き物」をもって私たちを満たして下さっていることを、心の底から喜ぶ者とならせていただけるよう祈るのである。私たち人間は、自分の生活の必要は自分で満たしている、いや、自分の知恵や力で満たさねばならないと、そのように考えている。自ら働いて、自分の生活は自分の責任で・・・と考えるのが当然と。けれども、「日ごとの糧」の全てを、私たちは自分一人で備えることができるのだろうか。多くの人の働きがあって、多くの人の手に支えられて、私たちのいのちは保たれている。神がそれら全てを支配しておられる。そのことを、この祈りによって覚えるのである。

2、このように考える時、私たちは、「日ごとの糧」とは「日々のパン」すなわち「食べ物」と、当然のように考えている。そのように考えるのは分かり易い。けれども、私たちの生活の必要の全てについて、神は「この世の良き物」を備え、それらを「賜物」として与えて下さっている事実を知ること、しかも、神が「一方的な賜物」としていて下さることを忘れてはならない。私たちのいのちが支えられるために、神は格別に愛を注ぎ、恵みの御手を差し伸べて下さっている。いのちが支えられ、保たれるためには、「食べ物」の他に、「着物」も必要である。「住居」「仕事」「学校」も、そして「趣味」や「娯楽」等々、多種多様な人との関わりがあって、私たちの日々の生活が保たれている。それら全てに、神の守りがあり、祝福があることを祈り求めるよう、主イエスは教えておられた。日々、神の御手の中にあることを覚えるようにと。

3、箴言の言葉は、人間というものは、貧しさによっても、また反対に富の豊かさによっても、大切なことを見失う存在であることに、ズバリ警告を発している。「不信実と偽りとを私から遠ざけてください。貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で 私を養ってください。私が食べ飽きて、あなたを否み、『主とはだれだ』と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないように。」(8〜9節)人は、確かに貧しさの中で、神を恨み、また罵りさえする。反対に、富を得て、自分を誇り、神の助けを見失う。しかし、貧しさの中にあっても、神を頼り、神を喜ぶ者がいて、富を得てもなお、心を低くして、神に栄光を帰す者がいる。私たち自身は、果たしてどのように生きるのだろうか。今、現に、どのように生きているだろうか。神が私たちに必要な物は全て、「良い物」として備えて下さっているので、感謝して受け、それを喜んで生きることを、日々祈ることも大切なことである。神が共におられることを心から喜ぶ者となって、神が全ての必要を満たして下さることを知り、益々神に寄り頼む者とならせていただきたい。
(テモテ第一4:1-5、伝道者の書3:11-13)

<結び> 「私たちの日ごとの糧を今日もお与えください」と祈る時、私たちは、天の父なる神への信頼を込めて祈ることを心に留めたい。「今日も・・・」と言う時、これまでの確かな恵みと導きを、はっきりと覚えて、感謝を込めて祈ることができる。私たちは、神の大きな御手の守りの中で生かされ、祝福をいただいて生きているのである。もし、神の恵みや守りを忘れて生きているなら、この先の人生は、全く危ういものとなる。どんなに多くの富を得ても、また人々からの賞賛を受けても、神を忘れ、自分に頼っているなら、いずれ空しさやはかなさに心は押しつぶされるに違いない。私たちは、神が共におられ、必要を満たして下さることを信じ、喜びと感謝をもって、生かしていただくことを、この主の祈りをもってさせていただきたい。この主の祈りを使うか使わないか、それは別として、「私たちの日ごとの糧を今日もお与えください」と祈ることによって。
(箴言 30:7〜9)