『主イエスが弟子たちに教えて下さった「主の祈り」は、「天にいます私たちの父よ」と、神に向かって、「父よ」と親しく呼びかける祈りである。父なる神は天におられる。けれども、ただ遠く離れておられるのでなく、子どもたちが、臆することなく近づけるお方、私たちが祈るのを待っておられる神である。』と、私たちは繰り返し学び、確認をしている。第一に祈るのが、「御名があがめられますように」であって、そして、第二に祈るのが「御国が来ますように」である。(9〜10節)問102「第二の祈願では、私たちは何を祈り求めるのですか。」答「(「み国をきたらせたまえ」という)第二の祈願で私たちが祈る事は、サタンの王国を滅ぼしてくださるように、恵みの王国を進展させ、私たち自身と他の人々をそこに入れ、その中に守ってくださるように、また栄光の王国を早く来たらせてくださるようにということです。」
1、祈りは「神に私たちの願いをささげること」でありつつ、その願いは、「神の御意志に一致する事のために」願うことが大事と、このことも、私たちは繰り返し学んでいる。祈りは単に願い事をすることではなく、生ける真の神に向かって、「全くの崇敬と確信をもって」近づき、神と親しく交わることである。主イエスは、そのことを踏まえて、神が神として栄光を現して下さることを先ず願い、次に願うのは、神のご支配が、地にあまねく行き渡ることであると教えておられる。「御国」とは、神の支配が実現する広がりのことであり、目に見える「国」というより、人の心の内に神が住まれ、その人が神を喜んで生きる時、そこに「神の国」が確かに実現するという意味で、霊的な国、支配のことである。「御名があがめられますように」と、心から祈る人が、続けて「御国がきますように」と祈り、神のご支配の中にいる自分を喜び、神と共に歩むことを、一層祈り求めることが、第二の祈りの中心である。祈る人自身が、神のご支配を喜んでいるかどうかが問われている。
2、すなわち、「御国」とは「神の国」のことであり、神がキリストによって私たちを罪と悲惨の中から解放して下さったこと、そして罪の支配から、私たちを神の支配下に移して下さったことが、その始まりである。「御国」とは、「キリストによる神のご支配」と言い換えることができる。小教理問答は、「神のご支配」が行き渡ることを願うにあたり、罪と悲惨がなお支配するこの世を覚えている。罪が人々をがんじがらめにしている現実を、神が打ち砕いて下さるようにとの意味を込め、「サタンの王国を滅ぼしてくださるように」祈ることと。罪が支配する「サタンの王国」は、最早、神の民である私たちを支配するものではない。キリストは十字架でサタンに勝利し、私たちを罪と悲惨から解き放って下さったからである。それゆえに、罪の力やサタンの惑わしを恐れるのではなく、しかし、キリストの勝利が、一層地にあまねく実現するようにと祈るのである。クリスチャンのこの祈りがあって、この世界は、底なしの罪の悲惨に苦しむことはなく、また滅びから免れているのである。
3、だからこそ、この「恵みの王国を進展させ」、その「御国」に入る人が増し加えられ、私たちだけでなく、他の人々をも、「その中に守ってくださるように」祈ることは、いよいよ急務である。サタンが、私たちを再び滅びに導き入れることは決してない。けれども、罪との戦いはなお続く。新しいいのちに生かされ、聖い者とされる地上の生涯は、罪の誘惑との戦いの中にある。時に弱さに悩み、苦しむことがあっても、そのような時、この第二の祈りをささげて、神に近づくなら、神がその祈りを聞き上げて下さる。まさしく「恵みの王国の進展」を、味わわせていただくことができる。こうして私たちが、神のご支配を喜び、「御国」の進展を、個人として、また教会として経験するなら、「栄光の王国」の到来、また実現を、一層明確に待ち望むことができる。やがての時、キリストが再び来られ、「御国」を完成されることを、はっきり望み見て、私たちは「御国がきますように」と祈るのである。私たちは、自分の願いではなく、神のみこころがなりますように・・・と祈り続けているが、神が神として力を発揮し、ご自分のよしとされることを、思う存分成し遂げて下さいと祈ることは、最善で最大、最高の祈りである。次に続く第三の祈りも含めて、主の祈りの前半の部分こそ、祈り中の祈りと言えるものである。
<結び> 年の始めは、教会に集う人もそうでない人も、この日本の社会では、一年で一番、「祈り」を意識する時であろう。多分、祈らない人は一人もいない!という位に、祈りの季節である。けれども、私たちは、何事も「本物」を大切にしようではないか。生きておられる真の神に祈ること、生きて働く、全知にして全能の神に祈ることを。私たちを罪と悲惨の中から救い出して下さった神、イエス・キリストを救い主として遣わし、十字架の御業、身代わりの死をもって、私たちを滅びからいのちに移して下さった神、この神に祈り続けようではないか。この世の人々は、木や石で造った神、金や銀で造った神を拝み、草や藁で造った神さえも拝もうとする。偉大な人がいれば、神として崇め、近づいて、少しでも御利益に与りたいとも願う。そんな社会に私たちは生きている。だからこそ、「本物が一番!」と声を上げようではないか。また、「偽物にご注意!」とも言いたい。この日本という国、この社会にあって、「サタンの王国」が滅ぶことを、他方、キリストの恵みが満ち溢れる「恵みの王国」が進展することを、そして、「栄光の王国」が到来することに希望を寄せ、「御国がきますように」と祈り続けることが導かれるように。
(※詩篇115:2-15、135:13-18)
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