主の2015年の元旦を迎え、今年も、主の日毎の礼拝の他に、礼拝のために集う幸いを、先ず心から感謝したい。年の始めに神の前に出ることは、私たち自身の信仰を明確にさせられることである。神の国とその義とを第一に求める信仰を、心新たにすることを導かれたい。世の多くの人々は、年末から年始にかけ、何やらリセットして新しい年に向かおうとするようである。しかし、神の前に生きる私たちは、常に新しいいのちに生かされていることを、決して忘れないようにしたい。一度限りの生まれ変わりを大事にし、以後、日々新たないのちに生かされていることを。その新しいいのちは、何によっているのか、何によって保たれ、育まれているのかを。
1、詩篇119篇1〜2節を、私たちは二年に渡って主題聖句としている。旧新約聖書を信仰と生活の唯一の規準としている私たちは、人間にとっての本当の幸せは、神のみことばに従って生きることと、心から信じるからである。みことばによって養われ、育まれ、時には戒められ、諭されることが、どんなにか尊いことであり、それなしには、一歩も前に進めないことを知らされている。一人一人の、これまでの歩みを振り返るなら、それぞれに、あのこともあった、このこともあったと、いろいろな出来事が思い出されるに違いない。それらすべての出来事の中にあって、何よりも大きな恵みは、主イエス・キリストを救い主と信じ、新しいいのちを受け、生まれ変わって歩み始めた事実である。これ以上の幸いはない。私たちは、キリストと共に、神の子として生かされている。それは、神に守られて生きる本当に幸いな日々なのである。
2、神のみことばによって生かされ、神と共に生きる幸いは、この世の人々が求める幸いとは異なっている。この世では、多くの人が、目に見えるもの、また手で確かめられるものにひかれ、お金で解決できることに心を動かされている。先の総選挙で、政府与党は経済最優先を説き、日本の進む道はこれしかない・・・と訴えていた。果たして、それで大丈夫なのだろうか。人の心や内面のことが、後回しにされてはいないのか、そんなことが気になってしかたがない。しかし、この社会は、選挙結果に従って進んでいる。私たちは、このような現実の中にあって、神のみことば、主のみおしえによって、心を満たされ、心を養われて生きようとしている。そのために、聖書に養われて、また導かれて生きる日々を、一層喜びをもって歩むよう、強く迫られていると思われる。
3、今年は、1945年8月15日の敗戦以来、「70年」の節目となる。不戦の意志、また誓いを憲法に込めて、ここまで歩んできたはずである。ところが、今月中に、国産初となる戦闘機の試験飛行があることを、ニュースで知らされた。利潤追求の経済活動は、必ず武器生産に行き着く、目に見える形の一例である。それでいて「特定秘密保護法」が、昨年12月10日から施行されている。日本という国が、どこに向かおうとしているのか、私たちは、地の塩、世の光としての役割を自覚しなければならない。預言者としての役割も思い浮かぶ。そのためには、私たちが、「主のみおしえによって歩む人々」、また「主のさとしを守り、心を尽くして主を尋ね求める人々」となることが求められる。使命の大きさや役割の重さを思わずにいられない。けれども、だからこそ主を見上げ、主を待ち望む信仰をもって歩めるよう祈りたい。
<結び> 一年に、52週巡ってくる「主の日」を尊び、礼拝において「みことば」に触れること、また「みことば」をどのように読み、それを自分に当てはめるのか、礼拝を通して養われることを願いつつ歩みたい。自分が礼拝に連なるだけでなく、他の人を心に覚えつつ、礼拝に集いたい。そうする中で、家族や友人、また知人も、礼拝に共に集う道が開かれることを祈ろうではないか。実際、昨年の礼拝には、新しい方が導かれ、会堂が溢れるほどとなり、次の計画を祈り求めるまでになった。自らが幸いな日々を歩み、神と共に歩む、本当に幸いな日々を歩む人が、さらに増し加えられるよう祈りたい。
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