礼拝説教要旨(2014.12.28) 
神と人とに愛されたイエス  
(ルカ 2:39〜52)
 ベツレヘムでお生まれになった救い主、飼葉おけのみどりごを最初に礼拝したのは羊飼いたちであった。幼子は八日目にイエスと名づけられ、律法に定められたきよめの期間が満ちた時、マリヤとヨセフに連れられてエルサレム宮に行き、そこで敬虔なシメオンと女預言者のアンナとに出会い、シメオンから、幼子には、神の特別な使命が託されていることが告げられている。東方の博士たちの到来は、その後のことと思われる。ルカの福音書は、博士たちのことや、エジプト逃避のことは省略し、マリヤとヨセフが幼子を連れてガリラヤの町ナザレに帰ったこと、そして、「幼子は成長し、強くなり、知恵に満ちていった。神の恵みがその上にあった」と記している。幼子の成長の背後に「神の恵みがあった」ことを、両親が気づいたからであろう。(39〜40節)

1、そのマリヤとヨセフにとって、決して忘れられないのが、十二歳になったイエスのことであった。一家は毎年、過越の祭りにはエルサレムに行っていた。その年は祭りの習慣だけではなく、ユダヤの人々にとって、男の子が大人の仲間入りをする儀式(バル・ミツバー)に備えた宮のぼりであったと思われる。十三歳からは成人男子として、律法の知識はもちろん、その定めを守ることが要求され、イエスご自身もその時を迎えておられた。宮で教師たちと話を聞いたり、質問をしたり、そんな数日を過ごして、一家は帰路についていた。同じ町から一行となってエルサレムに来て、また、一緒に帰ろうとしていたので、両親は、イエスも当然その一行に混じっているものと安心していた。ところが、そうでなかったと分かって、引き返すことになった。その時の両親の慌てぶりは、想像に難くない。結局エルサレムにまで戻ることになり、その間に三日も経過していた。迷子になった自分の子を捜す親の気持ち・・・、心配で心が張り裂けそうになっていたのに違いない。(41〜45節)

2、エルサレムの宮では、イエスが教師たちの真ん中にすわって、「話を聞いたり質問したりしておられ」、それは、「問答形式」で教師と生徒が向き合って学ぶ、尊い場面そのものであった。イエスの受け答えは鋭く、「聞いていた人々はみな、イエスの知恵と答えに驚いていた。」(46〜47節)両親は驚きと心配のあまり、「まあ、あなたはなぜ私たちにこんなことをしたのです。見なさい。父上も私も、心配してあなたを捜し回っていたのです」と、責めるようにマリヤが語っている。一体どうしてこんなことをしたのか・・・、という思いである。(48節)ところが、これに対するイエスの答えは、とても冷静である。「どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存知なかったのですか。」両親は、この答えの意味が分からなかった。一連の出来事にうろたえていた。(49〜50節)イエスとはぐれてしまったことで、親としての不注意やうかつさなど、自分を責めていた。

3、けれども、十二歳になっていたイエスご自身は、全く冷静で、自分が何をし、今どこにいるか、この時はっきりと分かっておられた。エルサレムの宮におられる自分のことを、「わたしが必ず自分の父の家にいる」と、父なる神との関係として見事に自覚しておられた。マリヤが「父上も私も、心配してあなたを捜し回っていた」と訴えたの対して、イエスは「わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存知なかったのですか」と語って、自分の父は、天の神であると告白しておられたのである。「宮」こそ、ご自分のいるべき「家」と、神の子としての自覚を明確にしておられた。言い換えれば、イエスの生涯において、十二歳の時、神とご自分との関係がはっきりと自覚され、明確な信仰の理解が身に着いていたことになる。社会で一人前と認められる年齢の時であり、そんな大切な時のことが、この福音書に記されているのである。けれども、この時のイエスの知恵深さ、賢さが際立っているのは、ご自分が神であり、神の子であるとの自覚をしつつ、マリヤとヨセフに従って、「いっしょに下って行かれ、ナザレに帰って、両親に仕えられた」と記されていることにある。やがて十字架で身代わりの死を遂げれる救い主は、その生涯において、仕える者であることを貫いておられた。自ら進んで、相手より自分を下に置くことをよしとすること、それこそが仕えることである。(ピリピ2:3-8)

<結び> 十二歳から三十歳頃まで、主イエスは「両親に仕えられた。」その間に、ヨセフは亡くなったと思われる。母マリヤを支え、家族を支えて、この地上を歩まれた。母は、それら全てを「心に留めておいた」のである。天の父は、その全てを見ておられた。「イエスはますます知恵が進み、背丈も大きくなり、神と人とに愛された。」(52節)イエスは、周りの人々に愛されただけでなく、父なる神に愛され、神の大いなる御手の守りの中で成長し、やがての日に備えて、内なる人こそが養われていたのである。聖書の言葉によって養われ、神の教えをしっかり心に蓄え、公に福音を語る日のために備えておられた。神と人とに愛された方、そのような主イエスがおられたので、私たちはこの方を信じ、この方に倣って歩みたいと、そのように願うのである。

 今朝、年末から新年に向けて思うことがある。私たちはどのように生きようと考えているだろうか。また、どのように生きたいと願っているだろうか。今日、誰もが、人から愛されたいと切実に願っている。それは、「誰も愛してくれない、誰も自分のことを覚えていてくれない・・・」等々の、愛への飢え渇きでもある。しかし、人の愛を求めるあまり、多くの人が神の愛に気づかず、神の目の前を通り過ぎていることはないだろうか。私たちは神の愛に気づく者でありたい。神と人とに愛された主イエスは、十二歳の時に、はっきりと父なる神に愛されている事実を悟っておられた。その生涯には、当然、様々な苦難や課題が降りかかったのに違いない。けれども、父なる神がおられ、そして自分がいることを知っておられた。それで、両親に仕えて日々の務めを果たし、神が定めておられる時を待たれたのである。人に愛されることを期待し過ぎるより、神に愛されていることに気づく者でありたい。その上で神と人とに愛される者と、私たちもならせていただきたい。今年最後の主の日、神と人とに愛されて過ごした日々を思い出し、また新しい年、神と人とに自ら進んで仕える者となり、そして、神と人とに愛される日々を過ごせるよう祈りたい。