礼拝説教要旨(2014.12.21) 
飼葉おけのみどりご  =救い主キリスト=
(ルカ 2:1〜21)
今朝は、ルカの福音書に記されているクリスマスの出来事、幼子イエスの誕生を知らされ、飼葉おけのみどりごを捜し当てた羊飼いたちの場面に目を留めてみたい。幼子イエスは「罪からの救い主」であり、また「王としてお生まれになった方」である。神がご自身の民を罪から救うため、そして、全ての人に、真の平和や喜びをもたらす真の王として、幼子イエスはお生まれになっていた。それは、歴史上の確かな出来事として、ユダヤのベツレヘムで起こっていた。ルカの福音書も、「皇帝アウグスト」の時代のこと、更には「クレニオがシリヤの総督であった時の最初の住民登録」のことを記し、救い主の誕生は、この歴史の中に確かに成就した、「一大事!」であることを強調している。

1、マリヤとヨセフは、ガリラヤの町ナザレに住んでいた。この二人がなぜベツレヘムへと出かけたのか。その理由は、皇帝アウグストが出した住民登録をせよとの勅令であった。ナザレに住むマリヤが、救い主の母となるにしても、その救い主の誕生の地がベツレヘムであるようにと、ヨセフと共に引っ越そうと考えたわけではなかった。時の権力者に翻弄されるように、しかし、神の大きなご支配の下にあって、二人はダビデの家系の町ベツレヘムへと向かったのであった。そして、そこに滞在している間に、マリヤは月が満ちて、男の子を産み、そのみどりごを飼葉おけに寝かせることになった。「宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」(1〜7節)幼子の誕生は、いつの時代、どの国にあっても、大きな喜びであり、感動の出来事である。マリヤとヨセフも、喜びとともに安堵していたに違いない。けれども、その場にいたのは二人だけだったのか、助けの手を差し伸べてくれた人がいたのか、聖書はほとんど何も記してはいない。「宿屋には彼らのいる場所がなかったから」との記述は、喜びより、物悲しさを誘うものである。

2、けれども、この福音書は、救い主の誕生こそ大きな喜びであると、野原の羊飼いたちに御使いが遣わされたことを記している。「・・・きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」(8〜12節)救い主キリストのお生まれを、御使いは「すばらしい喜び」、最高最大の喜びと告げた。羊飼いたちは、なぜ自分たちにこの知らせが告げられたのか、必ずしも理解はできなかった。けれども、天の軍勢の賛美を聞き、御使いたちが去った後、互いに話し合った。「さあ、ベツレヘムへ行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。」(13〜15節)彼らは、神が自分たちに喜びの出来事を知らせて下さったことを、信じて出かけて行った。飼葉おけのみどりごを捜し当てた時の喜びは、いかばかりであったろうか。彼らがマリヤとヨセフに会い、飼葉おけのみどりごを見た時、その驚きや感動は頂点に達していた。何もかも、「全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。」彼らは、御使いに知らされたことを、興奮しながら語らずにはいられなかった。それら全てをマリヤは心に納め、思いを巡らしていた。(16〜20節)

3、羊飼いたちは、その当時の社会で、人々からは見下され、最下層の者とされていた。けれども、神は彼らに目を留め、救い主キリストを真っ先に拝する、大きな喜びをお与えになった。まるで彼らを選んだかのように。そして彼らは、その知らせをないがしろにしなかった。神が、「私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう」と出かけたのであった。神が私たちに目を留めて下さること、神が私たちに喜びを与えようとして下さることに、はっきり気づく人、理解して立ち上がる人、そのような人こそが、神の喜びの知らせを聞き、その喜びに与る人である。最初のクリスマスの出来事が、全く人知れず、ユダヤの田舎のベツレヘムで起きていたとしても、神は、その出来事を羊飼いたちに知らせておられた。羊飼いの話したことをマリヤは心に納め、そのマリヤの証言が福音書に書き留められ、私たちはその出来事を知り、救い主を信じる信仰へと導かれたのである。喜びの知らせが羊飼いたちに届けられたことに、福音の本質が込められている。罪からの救い主を信じる信仰は、人を分け隔てしないこと、また救い主の前に進み出る人を、神は隔てなく受け入れて下さること、神ご自身は、私たちがためらいなく救い主にお会いするよう、幼子の姿をもって近づいて下さっていること等々、飼葉おけのみどりごは、私たちにはっきりと示しているのである。

<結び> 飼葉おけのみどりごは、八日が満ちて割礼を施され、イエスという名で呼ばれることになった。(21節)「主は救い給う」という意味で、御使いがマリヤに告げ、またヨセフにも告げた、「罪から救う方」にふさわしい名前である。マリヤもヨセフも、主が告げて下さったことを信じて、二人の成すべきことを果たしていた。クリスマスの出来事には、このように真の神を信じる者が自らを神に任せ、神を信頼して歩んでいる姿が、そこここに満ち溢れている。いずれも素朴で単純である。その事実は、今日の私たちにも、神を信じて、神に従うのに、素朴で、また単純に信じることの大切さを教えてくれる。ところが私たち人間は、そんなに素朴でいいのか、また単純でいいのか、もっと複雑であったり、難しく、得難いものの方が、有り難みがある・・・と思ったりするようである。荘厳な会堂で、立派な振る舞いをしながら礼拝をささげるなり、格調の高いものを求めたりする。しかし・・・。

 幼子はその後、三十数年が過ぎて、十字架でいのちを捨て、罪人である私たちの身代わりの死を遂げられる。罪人の罪を赦すため、罪のない方として、ご自分のいのちを代価として支払われた。そのような死を遂げるために、神の御子が、この世にお生まれになったのである。救い主イエス・キリストの生涯において、十字架と復活は欠かせない大事そのものである。しかし、この世に人となってお生まれになったことも、聖書が告げる大切な出来事である。この世のクリスマスは、ますます本質から逸れるばかりである。しかし、私たちはいよいよ聖書に立ち、本当のクリスマスを祝うことを選び取って進みたい。この世はますます神から離れ、富の惑わしの中に沈み込むに違いない。けれども、私たちは、神にあって、真実な歩みを導かれるように祈りたい。決して惑わされることなく!!