礼拝説教要旨(2014.12.14) 
王としてお生まれになった方  =イエス・キリスト=
(マタイ 2:1〜12)

 今朝も、マタイの福音書に記されている最初のクリスマスの出来事に目を留めてみたい。罪からの救い主である幼子イエスは、ユダヤのベツレヘムでお生まれになった。その幼子を最初に礼拝したのは羊飼いたちであったが、マタイの福音書は、東方の博士たちが、はるばるエルサレムにやって来たことを記している。彼らは、バビロンまたはペルシャ地方から、星を頼りに、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。・・・」と、当時、ユダヤを治めていたヘロデ王に尋ねたのであった。(1〜2節)

1、博士たちは、占星術や天文学に通じる学者たちであったと考えられている。またバビロンやペルシャ地方は、ユダヤからの捕囚の民が連れて行かれた地であり、旧約聖書のメシヤ預言にも関心を寄せる素地があった。そのような博士たちが、不思議な星に導かれ、ユダヤ人の王であり、また自分にも関わりのある王がお生まれになったと確信して、「私たちは、東方でその方の星を見たので、拝みにまいりました」と、恐れなくヘロデ王の前に立っていた。彼らは、ヘロデがどんな王で、どんなに残忍なことをしていたか、知らなかったわけではないと思われる。けれども、その王に恐れなく尋ねることができたのは、これから会えるであろう王こそが、真の王との確信のゆえと考えられる。この問い掛けに恐れ惑ったのは、ヘロデと町の人々であった。王は、自分の地位を脅かす新しい王の誕生を恐れ、人々は、ヘロデが何をしでかすかと恐怖に包まれていた。ヘロデが、身内さえも退けて自分の地位を守ろうとする、そんな人物だったからである。(3節)

2、ヘロデが、民の祭司長や学者たちを集め、キリストの誕生の地についての預言を問うた時、学者たちは、ほとんど戸惑いなく、ためらうこともなく「ユダヤのベツレヘムです」と答えている。キリスト=メシヤについての預言は、よく知られていたのである。預言者イザヤとほぼ同時代に、預言者ミカも語っていた。時の王が、自分の力を頼み、神に助けを求めようとしないので、神はやがて国を滅ぼすことを預言し、真の王の到来を告げておられた。ヘロデは、博士たちに「ベツレヘム」であることを知らせ、「わかったら知らせてもらいたい。私も行って拝むから」と、恐れを隠し、余裕を見せようともしていた。(4〜8節)彼は多少、半信半疑だったのに違いない。本気なら、すぐにも自分も行くと、そのように決断したであろう。しかし、そんなことはないと、信じようとはしなかった。学者たちも同様である。彼らは旧約聖書を知っていた。人にも教えていた。今、キリストの誕生という、最高の知らせを聞いても、心を動かすことはなかった。「ユダヤのベツレヘムです。・・・」今日に至るまで、心を動かすことのない人々が、数限りなく溢れているのと同様である。

3、博士たちは、いよいよ王を拝する時が近づいていた。ベツレヘムに向かう途中、神ご自身は、彼らを確かに導いておられた。「すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられるところまで進んで行き、その上にとどまった。その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。」ヘロデに言われてというよりも、神が導いて下さることの確信と共に、大きな喜びに包まれた。「そしてその家に入って、母マリヤとともにおられる幼子を見て、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。」(9〜10節)博士たちが礼拝した幼子イエスは、その時、「家」におられた。一歳を過ぎていたかもしれない。博士たちは、その幼子を、「王」として拝していた。その心の内にあったものは、王に対する忠誠であり、服従である。そして、その思いを贈り物に込めた。いずれも、宝の箱からのもであり、最高のものをささげようと心が込められていた。彼らは幼子を、「真の王」として拝した。その時から、この世の王に対しての関係が明白となった。「それから、夢でヘロデのところへ戻るなという戒めを受けたので、別の道から自分の国へ帰って行った。」(11〜12節)彼らは、最早、ヘロデを全く恐れることなく、真の神の導きに従うことを選び取っていた。私たちがクリスマスを喜び祝う時の、大切な視点がここにある。

<結び> 先週は、幼子イエスが「罪からの救い主」であることを覚えた。今週は、幼子イエスは、「王としてお生まれになった方」であることを、しっかり心に刻みたい。私たち人間は、生まれながらに王の支配を期待し、その支配下にあることを願うようである。それは、神のかたちに似せて造られた人間の、根源的な欲求かもしれない。神との交わりが人間にとっての本当の幸いであることは、神に背いた後も、なお真実なことであって、その歪んだ形が、この世の王を求めることにつながるからである。イスラエルの民が王を求めたこと、それ以前に、諸国には王制が広まっていたこと等に、その事実を見ることができる。世界にまだ王国は多数存在し、この日本においても、天皇の存在は、実に不思議な形で保たれ、今日に至っている。

 いずれも、人間にとって都合の良いように王の支配を利用し、自分を明け渡すことや、心の底からの服従を良しとすることは、なかなか見当たらない。けれども、本当に大事なことは、生ける神を王として拝することであり、幼子となってお生まれになったイエスを、真の王として迎え、この方を礼拝することである。この王は、決して強権をもって私たちに近づいて来るお方ではない。幼子となって、誰でもが近づくことのできる王として、この世にお生まれになった。それは自分から近づこうとする者を決して拒まず、全ての人を優しく招くためであった。私たちは、王としてお生まれになった方、主イエス・キリストを信じるようにと招かれている。この方に真心からの服従を言い表す、そのような信仰へと進ませていただきたい。その信仰に立つ時、この世の如何なる王や、権力をも恐れることのない、確かな生き方が導かれるからである。必ずや、そのように生かしていただきたい!