礼拝説教要旨(2014.12.07) 
罪からの救い主=イエス・キリスト=
(マタイ 1:18〜25)

 いよいよクリスマスの季節を迎えた。一年の内で、多くの人が喜びを感じる時であるが、私たちは、その本当の意味を心に留めて、この季節を過ごしたい。表面的なことに流されることなく、救い主のお生まれを喜び、その喜びを伝えることができるように、また、救い主が私たちと共におられることを信じ、確かな日々を過ごせるようにと祈りたい。今の時代は、ますます揺れ動き、何が正しく、何が間違っているのか、その違いを見分けるのは容易でなくなっている。私たちを含めて、どのように生きたらよいのか、迷うことが多い現実が日々迫って来る。そんな中にあって、クリスマスやイースターが毎年、必ず巡って来る。私たちの生きる原点を、しっかり思い出すように教えられている。もう分かっている、知っている・・・でなく、今年も、最初のクリスマスの出来事に、心の目と耳を傾けてみたい。

1、最初のクリスマスの出来事の全てに、目を通すことはできないが、今朝の聖書個所は、新約聖書の冒頭に記されている、正しく「イエス・キリストの誕生」の次第である。母マリヤは、ヨセフの妻と決まっていたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身重になるという、思わぬ事態が二人に降りかかった。その事情について、ルカの福音書に記されているが、マタイの福音書は、そのことを知ったヨセフが、大いに心を痛めたことを告げている。マリヤ自身は、自分の身に起こっていることを受け止めていたのに対して、ヨセフは、心配で心が張り裂けそうだったと思われる。「夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。」(18〜19節)いわゆる不倫、姦淫の罪は重罪であって、その当時は「石打の刑」をもって裁かれるのが当然とされていた。だからヨセフはマリヤを思いやり、「さらし者にはしたくなかったので、内密にさらせようと決めた」のであった。ヨセフの正しさは、神の前に正しく生きようとする誠実さであり、神の戒めに従う信仰からのものであった。そして、マリヤを愛するからこそ、彼女をさらし者にはしたくないと、苦悩していたのである。

2、ヨセフが心を痛め、苦悩していた期間はどれほどであったのだろうか。決して短い期間ではなかったと思われる。「内密に去らせようと決めた」後にも、彼が「このことを思い巡らしていた」からである。主の使いが夢に現れたのは、そのような時であった。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」(20〜21節)ヨセフなりに一つの答を出していたので、かえって御使いが告げる言葉、神からのメッセージが、彼の心に染み入ったのに違いない。全てのことが神のご計画の内にあることが、今更のように納得できた。マリヤ自身がヨセフに告げていたことを、はっきりと聞かされ、神が生きて働いておられることを確信した。だからこそ彼は、眠りから覚めた時、「主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。」マリヤの胎に宿る子は聖霊によることを信じ、その男の子は「イエス」と名づけられる方、「ご自分の民をその罪から救ってくださる方」と、心から信じて、マリヤを妻として迎えるのであった。

3、「罪から救ってくださる方」が意味することを、ヨセフがどのように理解したか、必ずしも定かではない。けれども、聖書が一貫して語ることは、神に造られた人間が、神に背を向けて自分の思うままを生きていること、神の戒めに従わないで生きていること、それが罪であるとの指摘である。神への背きが、ありとあらゆる悪の根源であり、神に立ち帰るように、神は招き続けておられる。背きの罪を認め、その罪を悔い改め、神の前にひれ伏すこと、それが救いへの道である。けれども、人は自分の側からは決して、神の前にひれ伏すことはしない。それほどに、人の心は頑なで、砕かれることがない。ヨセフは、そのような自分の心の罪を知っていたのではないか。だから「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です」と告げられ、その救いを信じたのではないだろうか。生まれた男の子の名を「イエス=主は救い給う」と、御使いが告げた通りにつけている。彼は、神に背いている罪の事実を知っていた。普通、人が、罪の事実を認めるのは難しい。誰もが、自分の弱さや愚かさなど、欠けていることは認めたくないからである。けれども、主イエス・キリストこそ、私たちを罪から救って下さる、真の救い主なのである。自分の罪を認め、心から主イエスを救い主と信じる信仰へと、進ませていただくこと、その信仰の一歩が大切である。

<結び> 今朝の礼拝で、二人の兄弟がイエス・キリストを救い主と信じる信仰を公にされる。信仰告白式と洗礼式が導かれることは、教会にとって大きな喜びである。罪から救われる喜び、また幸いは、神が、いつどんな時にも共におられることを、日々、豊かに経験させていただく幸いである。神が共におられることを、より確かに、より明らかに経験できるように、神の御子は人となって、この世に来られたのが、最初のクリスマスの出来事である。「このすべての出来事は、主が預言者を通して言われたことが成就するためであった。『見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)」(22〜23節)神が、人間となって、しかも幼子となって世に来られたこと、そこに「インマヌエルの神」としてのお姿があったことを、私たちは感謝をもって見出すことができる。人となり、それも幼子となり、いと低くなって近づいて下さり、優しさをもって、私たちに救いを与えようとして下さるのである。一人一人が恵みによる救いの確信を増し加えられ、二人に続く方が起こされるように、また新たな方が教会に導かれるようにと祈りたい。