礼拝説教要旨(2014.11.30) 
神を信じ、またわたしを信じなさい
(ヨハネ 14:1〜7)

 今月は伝道集会を過ごし、真の神を信じること、また主イエスを救い主と信じる信仰を、一人一人が再確認する幸いを導かれた。「心配するのはやめなさい」という主イエスの言葉が、私たちの心にずっと響いている。そして「どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです」との言葉も、私自身の心に迫って来る。そして二週間前、私たちクリスチャンは、「祝福を受け継ぐために召されたのだからです」との教えに耳を傾けた。神を信じる者は、上からの大きな祝福をいただき、世の人々とは違う、幸いな生き方ができる者とされている。この幸いを日々の生活の中で証しできるよう、神ご自身が期待して下さっているのである。また先週も、説教を通して、私たちの証しの尊さを教えられた。私たちが主イエスの教えに聞き従うために、今朝も主の教え、主が語られた言葉そのものに、しっかりと耳を傾けたい。

1、今朝の聖書個所は、受難週の木曜日にあたる日の夕べ、最後の晩餐の席でのことである。主イエスは遺言のように、多くの教えを弟子たちに語っておられた。その割合に早いところで、イスカリオテのユダの裏切りを明かされた。そしてユダが席を離れてから、イエスが語られることには、真剣さや迫力が増していた。そのために弟子たちは皆、何か圧倒される雰囲気の中で、只ならぬ事が起こる予感がしていた。ペテロが、「あなたのためにはいのちも捨てます」と語ったことは、その状況をよく表している。ところが、そのペテロに対して、主イエスは、彼の裏切りを予告された。その場が恐れと不安の頂点に達していたと想像できる。その時、主は語られた。「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。・・・」(1〜4節)弟子たちには、自分たちでその状況を打開する術はなかった。恐れ、それも自分では何もできない無力さを味わい、どうしようもない不安に包まれていた。この先には、確実に「死」があるという不安である。

2、「死」の恐れ、また不安というものは、どんなに強がったとしても、決して逃れられないものである。むしろ、正直に認めることが大事なのではないだろうか。その恐れの元にあるのは、死の後に、私たち人間はどこに行くのか、一体どうなるのか、誰も分からないことであろう。ところが分からないことで恐れが膨らむと、その分からないことを、分かったように思い込まされたとしても、それで安心したいと願い、多くの人が偽りの宗教に足を運ぶことになる。けれども、主イエスは、はっきりと言われた。「神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。」真の神がおられること、その父である神の家に、神を信じる者たちを迎えて下さることを。今、死がそこにいる弟子たちの心を、恐れに突き落としているとしても、その恐れを、神に、そしてわたしに、預けてしまいなさい。その信仰を持って、わたしに従いなさい、と主イエスは語っておられた。天におられる真の神、父である神を信じる幸いを、決して見失わないように・・・と。

3、私たちは、主イエスのこの言葉を聞いて、すぐに信じることができるだろうか。聖書の他の個所も読んで、もっとイエスのことを知って、よく分かってからでないと・・・と、躊躇うのは当然である。およそ三年に渡って一緒に過ごしていた弟子たちでさえ、なかなか信じ切れずにいた。トマスは弟子たちを代表するように尋ねた。「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」(5節)その問に対して、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」と、主は答えられた。主イエスを信じること、イエスを神の子キリストと信じる信仰こそが、死の恐れを根底からぬぐい去る確かな信仰である。肉体の死の後も、神にあって生きるいのちを約束するものであって、「この方以外に救いはない」と言い得る、真の救いへの道である。(使徒の働き4:12)父なる神は、御子を世に遣わされた。それは、神に背いた私たち人間を救うためであり、御子が十字架で身代わりの死を遂げることを通して、信じる者を救おうとされたのである。それで「わたしは道であり、真理であり、いのちなのです。・・・」と語っておられる。

<結び> 「死ぬことなんか怖くない!」と、強く言い張る人が多くなっているのかな・・・と思うことがある。人それぞれに、いろいろな思いがあり、いろいろな人に出会うので、感じていることに差があるに違いない。けれども、私たちの地上の生涯においては、何かと心配することが、次々と生じるものである。その時、主イエスの力強い言葉を覚えているならば、私たちはどんな強烈な恐れに対しても立ち向かえる。そのことを心から感謝したい。主イエスが弟子たちに語られたことは、私たちにも語られたことである。恐れや不安に包まれる時こそ、「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい」と。この時の恐れは、やはり「死の恐れ」であって、自分自身の「いのち」に関して、私たち人間には、自分でどうすることもできない部分のあることを認めなければならない。そして主イエスは、天の神がおられることを信じるように、またわたしを信じて、自分のいのちに関して、神のご支配に、潔く身を委ねることを勧めておられる。主イエスを救い主キリストを信じる者には、たましいの救いによる、言葉では言い表せない、喜びと平安が与えられるからである。

 今月、伝道集会と関連して、自分自身のことに幾つか触れた。改めて思うことは、いろいろ心配することの多い歩みであっても、祈りを通して、神に自分が困っていることを告げられるのは、大きな力となっている。「助けて下さい。守って下さい。道を開いて下さい・・・等々。」やれ祈祷料だとか、やれお札を買いなさい・・・ではなく、いつでも、どこででも、生きておられる真の神に祈れることは、途方もない幸いであって、底なしの恵みである。私たちは、こんなにも大きな恵みの中に招き入れられている。神の御手の助けの中で、どんな恐れにも立ち向かえるように、支えられているのである。これからの日々も、何が起こっても、騒がず、打ちのめされることなく、立ち続けさせていただきたい。外見や、見かけは弱々しくても、私たちは主に在って強いことを、確かに証しさせていただきたい。主イエスの言葉に励まされ、支えられて。
(※コリント第二4:7-15)