「主の祈り」の後半、第四の祈りは、「私たちの日ごとの糧を今日もお与えください」であった。小教理問答104では、「神の一方的な賜物のうちから、私たちがこの世の良き物の正当な分を受け、それによって神の祝福を楽しむことができるように」祈ること、と答えている。この世で生活する必要の全ては、神が備えて下さるものであり、必要のために祈りつつ、神への信頼を日々に育まれて、私たちは生きるのである。そのようにして生きる私たちであるが、小教理問答の答えは、私たちが、この地上の日々をもっと喜んで生きるようにと、そんな視点を教えてくれている。「この世の良き物の正当な分を受け、それによって神の祝福を楽しむことができるように」と語って、日々、神を喜ぶことを、この祈りを通して経験するように・・・と。
1、実は、私たちが信仰のことを考える時、必ずのように衝突することがある。信仰のことは霊的であり、生活のことは肉的であって物質的な事柄と、対立的に考えることである。何事も信仰的に考えることが大切で、霊的に物事を判断することを最優先して、それでよいと思う。主の祈りの内容も、実際そのような順序になっているではないか・・・と。そして、この第四の祈りの内容について、「日ごとの糧」とは、肉の糧としての「食べ物=パン」のことより、霊の糧としての「みことば」こそ、先ず祈り求むべき「糧」と言われる。そのような視点も大切であり、霊の糧を疎かにするのは、私たちにとって、致命的な欠けとなるとしても、もし、日々の生活の糧は、霊の糧に劣るものと考えるなら、それは行き過ぎであることを、しっかり覚えておきたい。私たちの生活の全ては、神の御手の守りの下にあって、神が必要の一切を賜物として備え、私たちに与えて下さっている。私たち一人一人は、「この世の良き物の正当な分を受け、それによって神の祝福を楽しむことができるように」、心を込めて祈るよう求められているのである。(1〜5節)
2、私たち人間が、なかなか満ち足りることを学ばず、人間の欲望は、残念ながら、底なしであることを忘れてはならない。それは誰もが認めることであり、人間の罪のゆえである。先週の箴言の言葉は、その底なしの欲望に気づいた者の神への祈りである。「二つのことをあなたにお願いします。私が死なないうちに、それをかなえてください。不信実と偽りとを私から遠ざけてください。貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で 私を養ってください。・・・」彼は、自分の弱さ、自分の欲の制し難さを知っていた。反対に、欲望が満たされない時、自分がどんな思いになるかも、十分に予測がついていた。それで神に祈り、神が自分の心の内に働きかけて下さり、どんなことがあっても、神を忘れたり、神の御名を汚すことのないように、神が守り、支えて下さるように、心を込めて祈った。満ち足りることを学ぶなら、私たち人間は、思いを超える祝福と幸いへと導かれるからである。(箴言30:7-9)
3、けれども、小教理問答が私たちの目を開いてくれるところは、更にもう一歩進んで、満ち足りて慎ましくしているより、「神の祝福を楽しむことができるように」と、満ち足りて喜び、感謝に溢れるような、そんな生き方を勧めていることにある。もちろん、注意すべきことは多々ある。私たちは、神からの祝福を、やはり自分に都合よく考え、取り違えることがある。十二分に注意を払いつつ、しかし、日ごとに、神が注いで下さる恵みと祝福を、感謝し、それを楽しむ日々を過ごすなら、私たちの日常は、全く違うものとなる。主イエスが、山上の説教で語られたこと、天の父が、私たちの必要の全てをご存知であること、祈る前からご存知で、だから、「心配するのはやめなさい」と言われた教えが思い浮かぶ。(マタイ6:31-33)実際の生活の必要の全てが、神によって支えられ、満たされていることを知り、「神の祝福を楽しむ」までになるなら、私たちは、もっと神を喜ぶ者になって、神の栄光のために生きる者とされるに違いないのである。(テモテ第一6:5-10、箴言15:16-17、17:1)
<結び> 日々の生活の必要のために祈ること、また、自分の仕事の導きのために祈ること、人との出会いや関わりのため知恵を求めること、病や苦しみから解き放たれること等々、「日ごとの糧」として祈ることは多岐に渡る。祈り求めつつ、もう既に叶えられ、答えを得ていることも数多い筈である。もちろん、なお祈り続ける課題は多く、いつになったら神は答えて下さるのか、気が遠くなることも、なお多くあるに違いない。けれども、自分中心に、ただ祈りが叶えられたと喜ぶのではなく、自分自身は取るに足りない者であるにもかかわらず、神が生きて働いて下さったので、私はこんなにも幸いを得ました、祝福を与えられましたと、感謝の証しを導かれたい。私たちが日々、生かされている生活そのものが、神の祝福を楽しんでいるものと、人々の目に映るなら、その証しを神が用いて下さるに違いない。そのようにして、私たち一人一人が、そして私たちの教会が用いられることも必ずあるということが、この祈りには含まれていることを覚えたいのである。
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