礼拝説教要旨(2014.11.16) 
祝福を受け継ぐために
(ペテロ第一 3:8〜12)

 先週は二日間の伝道集会、「心配するのはやめなさい」、また「どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです」と語られた、主イエスの教えに耳を傾けた。私たちが日頃、自分のことだけに関わって、一番大事なことを見失い、そのためにあれこれと思い煩いに振り回されていること、心配し過ぎて大切なことが分からなくなっていることなど、自分を省みるよう促された思いである。天の父がおられることを信じて、その神と親しく交わること、それが、私たち全ての人間にとって欠くことのできないこと、としっかり心に刻むよう教えられた。今朝は、その大切な教えを踏まえながら、その上で、主イエスを信じる者として、何を大切にして生きるのか、教会の一員となっている者として、どんな思いを持つことが大事なのか、主イエスの弟子、ペテロが語っている教えの一つに触れてみたい。

1、私たちが聞くべき教え、心に留めるべき戒めは、それこそ数え切れない。福音書に記されている主イエスの言葉があり、使徒の働きには、実際に聖霊が働いて多くの奇跡が起こり、弟子たちが語った教えと、彼らが成した業が記されている。そして、パウロやペテロ、またヨハネたちが手紙を記し、神の教えが書き留められている。旧約聖書には、実際に神が生きて働かれた出来事が数限りなく記され、私たちの信仰を導くために、天の神は、旧約聖書も新約聖書も、それら全てを備えて下さっている。私たちは、主の日の礼拝はもちろん、他の集会においても聖書を開き、それを学び続けている。その多くの教えの中の一つ、今朝の御言葉は、ペテロが紀元一世紀のクリスチャンたちに、日々の生活のおいて何を心掛けるのか、いろいろと語っている一端である。一人一人の立場を踏まえながらの教えに続いて、締め括りのように語られている。「最後に申します。あなたがたはみな、心を一つにし、同上し合い、兄弟愛を示し、あわれみ深く、謙遜でありなさい。」(8節)クリスチャンが、心を一つにすることの尊さが説かれている。互いに、他を覚え合うことである。

2、誰もが、この地上の生活にあって、それぞれの責任があって、固有の課題を抱えている。特別の困難が降りかかることがあり、皆が同じように経験する欲望との戦いがある。いずれの場合も、十字架の主イエス・キリストを仰ぎ見て乗り越えることが最善であり、最大の力となる。キリストが歩まれたように私たちも歩むなら、すなわち、天の神を信じて、その神に全幅の信頼を寄せて歩むなら、私たちの歩みもまた、万全となる。家庭にあっては、夫として、妻として、また子どもとして、主の証し人として生きることを、ペテロは具体的に教えている。そして8節は、「最後に申します」と言うように、全ての読者に向かって、皆の行き着くところとして、心を一つにし、互いに愛し合うこと、心を低くすることが、何よりも尊いことを告げる。更に、「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」(9節)世の人々、神を知らず、神に背を向けた人々がするのとは違う生き方、そのことに心を向けるようにと語っている。悪に対しても、また侮辱に対しても、「かえって祝福を与えなさい」と。果たして、そのようなことは可能であろうか。とても不可能と思える。そんなことができるのだろうか・・・と。

3、カギとなるのは、「あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです」と言われることにある。イエス・キリストを信じて、罪の赦しを受け、たましいの救いを得てクリスチャンになることは、神からの大きな祝福に与ることである。その祝福は、救いを得たその人、一人に止まるものではなく、その人から更に次の人へと、受け継がれて行くものなのである。天の神は、そのように祝福が受け継がれるものとして、ご自身の民を一人一人、救いへと導き入れておられる。この尊い真理、神の救いのご計画を心に留めるなら、「・・・かえって祝福を与えなさい」と言われる意味に気づかされる。神を知らず、神に背を向けた人々とは違う生き方が、私たちには求められているだけでなく、そのように生きることができるよう、私たちには、新しいいのち、また力が注がれているのである。キリストを信じて、新しいいのちに生きる時、私たちは、最早、私たち自身の力で生きているのではなく、キリストが私たちの内にあって生きておられると、そのように言われる。「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:20) 「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(コリント第二5:17)私たち、イエス・キリストを信じる者は、キリストに倣って、キリストが歩まれたように歩むようにと、大いに期待されているのである。世の人々とは違う者として・・・。(10〜12節)その時、自分の力に頼ることなく、天の父を仰ぎ見て、キリストを信じ、聖霊の導きを願って祈ること、自分一人でするのでなく、教会の交わりの中で励まし合い、支え合うことが確かな力となるのである。

<結び> 私自身のことで言うと、幼い時に祈りを教えられ、神に祈ることによって支えられ、信仰を育まれたのは確かである。死の恐れから解き放たれたのは事実であった。けれども、病気を筆頭とした心配事が、なくなった訳ではなかった。10歳を過ぎて、教会に行くことが楽しいと思えなかったことは、大きなショックであった。神の側で、私を捉えていて下さったことがなければ、教会から離れていたに違い。「祝福を受け継ぐために召されたのだからです」としか、言いようがない。17歳の頃、自覚的に教会に集うことが喜びとなった。けれども、自分の人生がどのように導かれるのか、定かではなかった。大学卒業を前にして、どのように進むのかを考えた時、私の人生の支配者が神ご自身であるなら、神が導こうとされることを知るため、卒業後は神学校に行こうと、そのように心が定まった。神に祈って支えられてここまで来たのなら、これからも神の導きに従いたいと思った。

 神学校を卒業して、この所沢聖書教会に導かれた時、こんなに長く止まる予定はなかった。二年の約束であった。その約束を少なくても五年は・・・と延ばし、途中、二、三回、もう止めるべきと思うことを経て、今に至っている。主が共におられて、私たちの現在がある。教会全体で、「かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです」との勧めを覚えたいと、心から願っている。アブラハムが「祝福の基」とされたように、私たちもこの地で、「祝福を受け継ぐ」群れ、教会とされたいと思う。折しも、この会堂のスペースのことで、少しでも拡げられるようにとの思いが膨らんでいる。神からの祝福を受け継ぎ、一人でも多くの方と共に、更にその救いの恵みを受け継いで行くため、確かな計画が導かれるように祈りたい。そして、そのことのために、一致すること、互いに愛し合うことや支え合うことを、確かに導かれるように祈りたいのである。