礼拝説教要旨(2014.11.09) =伝道集会U=
どうしても必要なこと
(ルカ 10:38〜42)

 「どうしても必要なことはわずかです=いや、一つだけです=」をテーマにした伝道集会の二日目、今朝の聖書個所は、主イエスが、ベタニヤという村で、マルタとマリヤの姉妹の家に迎えられた時の出来事である。イエスはガリラヤ地方で伝道をされ、またサマリヤからユダヤの地方へと南に下られ、エルサレムに来られる時、近くのベタニヤ村に立ち寄っておられた。その村にマルタとマリヤ、弟のラザロが住んでいた。この家に迎えられるのは、この日が初めてというより、何度目かになっていたと考えられる。ヨハネ11章で、ラザロのよみがえりの出来事が記されているが、この家族については、両親のことは何一つ触れられていない。二人の姉妹が弟の三人で、身を寄せ合って生活していたところに、主イエスとの出会いがあり、イエスを主、救い主と信じて家に迎え入れる、そんな生活をしていたものと思われる。イエスが来られる時は、いつも精一杯のもてなしをし、ゆっくり休んでからエルサレムの町に出かけていただきたい・・・と。

1、ところが、この日はその精一杯の「もてなし」に関して、マルタの心に、何やら納得のいかない思いが広がり始めていた。彼女は、イエスを「喜んで家にお迎えした」筈であった。けれども、妹のマリヤが、「主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた」その姿に、自分だけが立ち働いていることに苛立を覚えた。「ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。『主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。』」(38〜40節)マルタは、妹のマリヤの態度に苛立っていただけでなく、何も言わない主イエスにも、文句を言っていた。最初は、二人してイエスの足もとに座り、主が語って下さる言葉に聞き入っていたに違いない。しばらくして、もてなしのことが気になり、マルタは立ち上がって、忙しくもてなしに専念したのである。けれども、マリヤは一向に立ち上がる気配がなく、じっと座って「みことばに聞き入っていた。」誰もが、マルタの気持ちは痛いほどよく分かり、自分も同じように、主イエスに訴えるのでは・・・と、そのように思う場面である。私たちも、誰かをお客に迎えたならば、できる限りのもてなしをしたいと思う。家を片付け、どんなごちそうをしようかと思い巡らし、もてなしのために「気が落ち着かず」という経験があるに違いない。マルタは「せわしく立ち働いていた」のである。

2、主イエスの答えは、マルタには意外なものであった。「主は答えて言われた。『マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。』」(41〜42節)「あなたの気持ちはよく分かった。マリヤに言い聞かせとあげよう・・・」ではなく、マリヤが、主の足もとに座って教えを聞いている、その態度を良しとされ、その良いものを取り上げてはならないとまで、主は言われた。けれども、それは彼女をたしなめてではなかった。むしろ、苛立ちを静めるようにと、「マルタ、マルタ」と呼びかけておられた。「あなたは、多くのことを心配して、心を取り乱していますね。でも、あなたの人生において、どうしても必要なことは何かを考えてみなさい。そんなに多くはありません。いや、それは、ただ一つです。そして、マリヤは、ただ一つの、大切なものを見つけたのです。だから、それを取り上げてはいけません。」主は、マルタに優しく語っておられた。主イエスは、もてなしをすることとイエスの教えを聞くことと、どちらを大切にするかの比較は通り越して、人間にとって「どうしても必要なこと」は何か、に論点を移しておられた。「どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。」マルタも、そして私たちも、主が語っておられる意味を、聞き分けることが求められている。人間が人間として生きる上で、欠いてはならないもの、それは多くはなく、わずかであること、しかも、ただ一つであることを覚えなければならない。その一つを、マリヤはしっかり選んでいた。マリヤは、主イエスの傍にいて、その教えに耳を傾けるという、神との親しい交わりをしていたのであり、「彼女からそれを取り上げてはいけません」と、主は明言しておられた。

3、この出来事を通して、私たちはついつい、マルタとマリヤの対照的な振る舞いそのものに目を留め、どちらの振る舞いが良かったのか、私たちの生き方や態度を学び取ろうとする。極端には、忙しく奉仕に励むのか、御言葉に耳を傾けるのか、どちらが良いのか、はたまた正しいのか・・・と。イエスは、マルタのもてなしを受けておられた。喜んでおられたに違いない。しかし、「もてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て」訴えた彼女には、マリヤがしていること、「主の足もとにすわって、みことばに聞き入る」ことの尊さ、大事さを気づかせようとされた。じっくり、またしっかり「みことばに聞き入る」ことは、全ての人にとって、最も大切な神との交わりの中心であり、これこそ、人間に欠かせない、いのちの源と言うべきことである。だから「彼女からそれを取り上げてはいけません」と言われたのである。主イエスが、荒野で悪魔の試みを受けられた時、「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」と答えておられた。私たち人間が生きるのに、口にする食べ物が必ず必要としても、心が神の「ことば」によって養われることがないと、本当の意味で生きているとは、決して言うことはできない。私たちの心は、神の教えによってのみ養われ、育まれるものである。人間が、他の動物とは違っている、その最大の違いは、神の「みことば」を聞き分ける力があることにある。マルタもそのことを知っていた筈で、だからこそ、その時、マリヤから、その大切なものを取り上げてはならないと言われたのである。

<結び> 私たちは、どのように生きているだろうか。何を大切にし、また何を拠り所としているだろうか。主イエスの教えを喜び、その教えを聞こうとして教会に集っている。日ごとに聖書を開いて、神の「みことば」を糧として歩んでいる。また、そのように生きて行きたいと願って、教会に通っている私たちである。そんな私たちであるが、マルタと同じように、つい日々の生活のことに思いが走り過ぎ、教えを聞くのを後回しにするように、脇道にそれることもしてしまう。そんな時、主イエスの言葉を思い返すことが導かれるなら幸いである。「しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。」また、もし、まだこの、どうしても必要な、ただ一つのことを、選び取っていないと、そのように気づかれる方は、ぜひ、ご自分の生き方を、よくよく見つめていただきたいと、心からお勧めしたい。
 
 確かに、私たちの日々の生活は、実に様々な事柄に取り囲まれている。あらゆる課題を日々担って、時には瞬時に判断し、答えを出して行動しなければならない。神のことや信仰のことなど、考えている暇はない!・・・・・とまで思われるかもしれない。けれども、だからこそ、「どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです」との、主イエスの言葉を、口ずさんでいただきたい。どんなに、この地上で栄華を極めても、私たち人間いのちは、神の手に握られているのである。最後には、必ず神の前に立たされる。「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ。」(伝道者の書12:13-14)主イエスを、神の御子キリストと信じる信仰によって、罪の赦しをいただき、その教えに聞き従い、神と親しく交わることを喜びとする歩みが、私たち一人一人に確かなものとなるように、心から祈りたい。