今年の伝道集会は、「どうしても必要なことはわずかです =いや、一つだけです=」をテーマに、今日と明日、二日間の開催である。今年も先ず、多くの人々が行く先を見失い、不安に押し潰されそうになり、心配や苛立ちが満ちている・・・という世の中の状況が、益々深刻になっている事実を覚えておきたい。世界中が恐れと不安に包まれている状況は、テロの頻発や、やっかいな病気の蔓延が、もはや特定の地域に止まっていない現実によって明らかである。日本の社会は、大震災からの復興も原発事故の収束も、全く見通しのないままである。以前にもまして、真の神を見上げ、地に足をつけて歩むことが何よりも大事となっているのではないどろうか。それでも、自分に直接の何かがない限り、目の前のことで精一杯となったり・・・、そんな私たちである。そして、日々の生活において、ちょっとしたことで心が騒ぎ、また、周りの人を見まわして揺れ動くなど、思い煩いにはまり込むことが多い。だからこそ、どんな時代になっても決して変わらない教え、主イエスが語られた教えを、繰り返し聖書から学び、何事にも動じない心を養われることは、何事にもまして大事と思われる。
1、さて、私たち人間の心配事は、一体何が原因なのか、主イエスは見抜いておられた。それは、私たちがこの地上で生活している現実があるとして、その生活の中で、神が天におられると信じる信仰が、私たちとどのように関わり、また、どのように繋がっているのか、神を信じる信仰が生きて働いているかどうかにある、という指摘である。主イエスが語っておられた直接の聴衆は、神を信じる人々であり、弟子としてイエスの教えに真剣に耳を傾けていた人々が中心であった。けれども、実際に主イエスの教えは、全ての人に当てはまるものであって、この世で生きる全ての人にとって、大切な教えであることは言うまでもなかった。当時の人々も、今日の私たちも、この世で、何かしら「宝」を蓄えようと必死になるのは、至極当然のことである。また、将来のために蓄えること、子どもの教育資金であったり、また自分の老後のためなど、懸命に努力するのは尊いとしても、主イエスは、神がおられることを忘れたまま、ただ地上のことだけを考えていては、思いもしない「どんでん返し」のあることを警告されたのである。この地上の宝は、必ず朽ち果てることを忘れてはならない!と。神を忘れて生きる生き方は、人間として、とんでもない損失を被るものであることを、私たちは心に留めなければならない。地上のこと、特に富に心を奪われるなら、そのまま、必ず神からは遠ざかるからである。主イエスは、賢く、よく考えて生きなさいとは言わず、ずばり「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。・・・神にも仕え、また富にも仕えるということはできません」と、明言された。
2、それにしても、私たち人間の心配事、思い煩いは、日常生活の些細なことが多い。もちろん一つ一つは、決して些細なことではなく、その人にとって深刻で、重大な事柄に違いない。例えば、健康を保つために、毎日の食生活はとても大切である。天候が不順であれば、今日は何を着るのか、カゼを引かないよう注意を払わなければならない。けれども、そのことで頭がいっぱいになるほどに、心配が溢れるなら、それは行き過ぎである。それよりは、私たちを養って下さっている神がおられること、天の父がおられることを、もっともっと見上げなさいと、主はそのように語っておられた。天の父である、神を信じる信仰をはっきりさせること、それが何より大切なことである。「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。・・・」天の父の目は、私たちに注がれている。そして、父は必ず、その手を差し伸べて、必要を満たして下さるのである。「・・・きょうはあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。」私たち人間の心配は、信仰がないからではなく、信仰が薄いから・・・と言われている。薄い信仰とは、どんなものかが気になる。揺れ動く信仰なのか・・・。いつも揺れ動く信仰でしかないない者にとって胸が痛むが、やはりその通りである。天の父は、私のことを全部知っていて下さる! 私の必要はご存知である!と、そのことを悟って、神にお任せしようとする、そのような信仰へと進むことがカギである。「こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。」
3、ところで私たちは、自分の性格を、自分でどれ位分かっているだろうか。心配性の人もいれば、その反対に、楽観的でおおらかな人もいる。どんなことにも動じない、勇敢な人もいる。けれども、人間の本質を問うなら、残念ながら、強そうな人でも脆く、本当は弱いことを認めなければならない。事実、神を認めず、自分の力を頼みにして生きているとしても、その人の最期は、果たして本当の拠り所があるのかないのか、とても深刻である。主イエスは、一番確かな拠り所を得ているのか、そこに辿り着いているのか、その大切なことを、何度も何度も語っておられる。「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(10:28)「・・・だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいのでしょう。」(16:24-26)もし何事にも心配性の人がいるなら、自分のいのちが、本当の意味で平安を得るためには、どうしたらよいのか、その問を問い続け、救い主のイエスのもとに辿り着くことが一番の幸いなのである。一番肝心なことで心配して、その心配を解決していただく生き方を、誰もが見出すように、主イエスは語り続けられたのである。もちろん、日々の生活において、ほとんど心配なく過ごしている人も、自分のいのちの究極について考え、思いを巡らせ、神を見出すこと、主イエスを救い主と信じる信仰に至ることを、主イエスは待っておられるのである。
結び 今、私たちにとって、何が一番心配なことであろうか。これから年末にかけて、消費税の税率引き上げの決定があるのだろうか。日本の経済が破綻することはないのか、やはり生活の心配が大きい。家族に受験を控えている人がいると、来年の3月頃まで、家中かなりの緊張に包まれるに違いない。健康の関しての心配、将来の生活設計など、若くて元気な時とは違う心配も増え続ける。いずれの場合でも、天の父が、私たちを養っていて下さることを覚えられるだろうか。天の父である神は、私たちの必要を知っておられると、主イエスは断言しておられる。そのような神に、私たちは守られ、養われているのである。私自身、自分のことを振り返ると、よくよく心配性で、弱虫だと思う。けれども、その弱さがあって、天の父に祈ることを教えられたように思う。元気で、何の心配もなしに過ごしていたら、祈ることはないまま、子どもから大人に・・・と、通り過ぎていたかもしれない。夜中に身体の変調がおこり、朝になって耳鼻科や小児科の医者にかかった記憶の中で、百日咳やおたふくかぜ、はしか、高熱時の幻覚のような夢・・・等々、病気の先に死があることを直感していたように思う。人は必ず死ぬのであって、何かと恐れていた。けれども、聖書に触れ、主イエス・キリストを信じる信仰を教えられたことによって、神が備えて下さった「永遠のいのち」の確かさに、真の平安を見出すことができた。「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスのある永遠のいのちです。」(ローマ6:23)「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)主イエス・キリストを信じ、たましいの救いを得て、様々な心配から解き放たれる幸いを、一人でも多くの方と、皆で共に喜べるようにと心から願っている。
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