礼拝説教要旨(2014.11.02) 
失われた人を捜して救うイエス
(ルカ 19:1〜10)

 伝道集会を控えて、主イエスがこの地上を歩まれた時、何を語り、また、どのように人々に接しておられたか、その一端に目を留めてみたい。教会に長く来ておられる方々は、何度も聞いている話、ザアカイという取税人が主イエスに出会って、救いに導かれた出来事を、思いを新たにして心に留めることにする。ザアカイが主イエスに出会ったのは、十字架への道のりをはっきりと意識しておられたイエスが、エルサレムに近づき、その前にエリコの町へ来られた時であった。主イエスについての噂を常々聞いていたザアカイは、イエスがどんな人であるか、何をするのか、何を語るのか、一度は自分の目で確かめておきたいと、そんな思いでイエスを待ち受けていた。恐らく、前の章に登場している、盲人の叫び声も聞きながら、一体どんな方か・・・と。

1、ザアカイの人となりについて、聖書が記すのはごく僅かである。「・・・ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。彼は、イエスがどんな方かを見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。」(1〜3節)けれども、「取税人のかしら」「金持ち」と記されていることに、彼の人生が凝縮されている。その当時、「取税人」は、ローマのために税金の徴収をする役割を任され、不正な取り立てを公然としても咎められず、町の人々からは嫌われ、また妬まれていた。ザアカイが「かしら」にまで上り詰め、「金持ち」になっていたのは、ほぼ当然で、反面、同胞からは疎まれ、心満たされて生活していたとは決して言えない、そんな日々を送っていたことが伺われる。お金があれば、それで幸せになれるのか。決してそんなことはない!と、ザアカイ自身が、気づき始めていた時に、イエスがエリコに入り、町をお通りになったのである。

2、「ザアカイ」という名前は、「義人」または「清い人」を意味している。両親はきっと、「義しい人になるように」、「清い心で生きるように」と願って名付けたに違いない。ところが、何か屈折した日々を過ごし、不当な蓄財をして金持ちになり、それなりの地位を得ていた。そのザアカイが、イエスを見ようとしたのである。ところが「背が低かった」彼は、「群衆のために見ることができなかった。」群衆の内の誰一人、彼のことは意に介さず、むしろ、彼が前に進みでようとするのを妨げたと想像できる。社会的な地位も金持ちであるという力も、何ら通用せず、彼は挫折しそうになっていた。けれども、彼は、次の行動に出た。何とかしてイエスを見たいと思い、「それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。」(4節)実は、木に登ったからと言って、それでイエスと見ることができるかどうか、その保証はなかった。しかし、イエスご自身が彼に目を留め、語り掛けて下さった。「イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。『ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。』」いきなり名前を呼ばれたザアカイは、驚いたに違いない。けれども、大喜びでイエスを、自分の家に迎え入れたのである。(5〜6節)

3、「きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」この言葉は、いかにも唐突で、やや強引な印象である。「泊めて下さい」ではなく、「わたしはあなたの家に泊まるべきである」という意味を込め、「わたしはそのように決めている」と、イエスは語られた。そしてザアカイは、その決め事を喜んで、イエスを迎え入れていた。この方に自分を明け渡す、その決意が湧き出て、イエスを自分の家に案内していた。これを見ていた人々がつぶやいても、その時のザアカイは、心の底から悔い改めていた。「・・・『主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。』」(7〜8節)周りの人が自分をどのように見ようと、主イエスが私を認めて下さったことが嬉しく、この方の前に、自分の生き方を変えていただきたいと、心から願った。ザアカイの悔い改めの心を、誰よりも喜ばれたのはイエスご自身である。「イエスは、彼に言われた。『きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた人を捜して救うため来たのです。』」(9〜10節)人々から疎まれていたザアカイ、また神に背を向けていたザアカイも、イエスに出会って、確かな悔い改めと救いに導かれたのであって、主イエスご自身が、「あなたもわたしの大切な子である」と宣言しておられた。同じように救いに導かれる人が、次々と起こされるよう、主イエスは、「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです」と、念押しをしておられた。

<結び> ルカ19章は、十字架を前にした受難週を迎える、ほんの少し前のことである。イエスご自身が、何のために世に来られたのかを、自らも確認しておられたに違いない時である。ルカ5章32節では、次のように語っておられる。「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」15章では、いなくなった一匹の羊、なくした一枚の銀貨、そして、いなくなっていた息子のたとえにより、罪人の悔い改めを神が喜ばれることを教えておられる。神に背を向けて、失われてしまった人間が神に立ち帰るために、神の御子であるイエスご自身が、失われた人を捜し出し、救って下さるのである。ザアカイの場合、主が彼を見出し、近寄り、声をかけておられた。大勢の人だかりの中で、主は、ザアカイの前を通り過ごさず、彼に声を掛け、彼の家に行かれたのである。彼は、そのことが嬉しく、心の底まで見透かされていることに気づいた。そして、「あなたを信じます!あなたに従います!!」と、まさしく信仰を言い表すばかりに、悔い改めの言葉を発していた。その全てを主は見抜いておられた。だから「きょう、救いがこの家に来ました」と、救いを宣告して下さったのである。

 私たち一人一人の場合も、実は、主イエスに見出され、イエスを信じる信仰へと導かれている。主が、失われていた私たちを捜し、見つけて救いへと招き入れて下さっている。そのことに気づいて、感謝をもって、日々を歩むこと、それがこの上もなく大切である。私たちの信仰の、一番肝心なことである。私たちは、神ご自身によって見出されて、神と共に歩む幸いを与えられている。その感謝の内に、キリストのからだである教会に連なり、主が今も成し続けておられること、失われた人を捜して救う働きのため、私たちも用いていただけるなら、何と幸いなことであろうか。