主イエスが弟子たちに教えて下さった「主の祈り」は、「天にいます私たちの父よ」と、神に向かって、「父よ」と親しく呼びかける祈りである。父なる神は天におられる。けれども、ただ遠く離れておられるのでなく、子どもたちが、臆することなく近づけるお方、私たちが祈るのを待っておられる神である。その神に祈る第一が、「御名があがめられますように」である。(マタイ6:9)問101 「第一の祈願では、私たちは何を祈り求めるのですか。」答「(「ねがわくは、み名をあがめさせたまえ」という)第一の祈願で私たちが祈ることは、神がご自分を知らせるのに用いられるすべての事において、神が私たちと他の人々に神の栄光をあらわす力を授けてくださるように、また、神が万事を御自分の栄光のために配剤してくださるように、ということです。」
1、祈りは、「神に私たちの願いをささげることです」と、問答98で言われている。けれども、その願いは、「神の御意志に一致する事のために」願うことが大事である。従って、祈りは単に願い事をすることではない。生ける真の神に向かって、「全くの崇敬と確信をもって」近づき、祈りをささげるかどうか、祈る私たちの心の奥底が探られることになる。主イエスが、弟子たちに、第一の祈りとして教えておられるのは、そのことである。「御名があがめられますように。」祈るその人自身が、心から神を信じて、神に栄光を帰しているかどうか、自分自身の信仰を点検し、深められるようにと祈ること、それが第一の祈りである。祈る人自身が、神を神としてあがめ、従っているのか、神を喜び、神と共に歩む幸いを、日々経験しているのか、その人自身の生き方が問われている。小教理問答1の、「神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶ」という、人生の「主な目的」を、心から果たしたいと願っているのか、そのように生きているのか、そんな自己吟味を込めて祈ることを、主は求めておられる。
2、「神がご自分を知らせるのに用いられるすべての事において」とは、「御名」の意味するところである。神は、ご自身を人に現す時、幾つかの名前を示しておられた。「全能」なる神として、また「主」として現れ、語り掛けておられる。(創世記17:1、出エジプト3:14-15)名前の他には、具体的な「御言葉」や「御業」をもって人に近づいておられる。そうした「すべての事」について、私たちは、聖書を通して知ることができる。また私たちの日々の生活に関して、神は、聖書の教えをもって導きを与えて下さっている。神が聖い方であり、愛に富む方であること、義なる方であり、裁き主であること、それら全てについて、私たちが神を正しく知り、より深く知って、神の前に心を低くすることが導かれるように、そのために心から祈るようにと、私たちは求められている。従って、祈るその人自身はもちろん、教会で共に祈る人たちが、神を神として心からあがめ、神ご自身の栄光を現すことができますようにと祈ることになる。詩篇67篇の祈りは、実にそのような祈りと言うことができる。
3、また詩篇のこの祈りは、祈る「私たち」自身のことを、しっかり見つめつつ、神をあがめ、ほめたたえる「国々の民」が、益々増し加えられることを願っている。「それは、あなたの道が地の上に、あなたの御救いが すべての国々の間に知られるためです。神よ。国々の民があなたをほめたたえ、国々の民がこぞって あなたをほめたたえますように。・・・」(2〜3節)その同じ願いが、「御名があがめられますように」という願いに込められている。祈る私たちが、先ず、神を神としてあがめ、その栄光を現して生きるなら、その証しを神が用いて下さり、神ご自身が栄光を現して下さるからである。「神が私たちと他の人々に神の栄光をあらわす力を授けてくださるように、また、神が万事を御自身の栄光のために配剤してくださるように」と祈ることに、神が答えてくださる時、すなわち、神の御業そのものがなる時、「国々の民があなたをほめたたえ 国々の民がこぞって あなたをほめたたえますように」との祈りが、確かに聞かれるのである。そのように神ご自身があがめられ、ほめたたえられることを祈り求めることが、「主の祈り」の第一の祈りである。私たちは、その第一のことを、再認識したい。
<結び> 聖書において、「名前はその人を表す」ことは、顕著である。一人の人の、人格の全てを言い表すほどに、「名前」は大切である。神に名前があり、神の「御名」と言う時、それは神の全てを指して言われることである。詩篇の中で「私たちの主、主よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。あなたの威光は天でたたえられえいます・・・」と歌う時、神の御業が、天と地に満ち溢れていると、そして、神のご性質は、この地上の全ての営みの中に、必ず見出されると告白している。(詩篇8:1以下)私たち人間が、心を低くして万物に目を留めるなら、必ず神ご自身に行き着くからである。その時、私たち人間が成すべきこと、それはだだ一つ、神に栄光を帰し、「御名があがめられますように」と祈ることである。私たちが神のために、何かをする必要があるのかと問うなら、神は、何一つ必要としていないのも事実である。他方、私たちは、神に向かって何かを求めるばかりで、なかなか答えていただけないと嘆くことがある。けれども、祈りにおいて大切なことは、先ず、神の御名があがめられるように祈ることである。神が神としてあがめられることを、自分自身の課題とし、その上で、神が神として、全ての人の上に手を差し伸べ、栄光を現して下さるようにと祈ること、それによって、神の恵みと祝福は、必ず地に満ちるのである。そのことを信じて、「御名があがめられますように」と祈り続けたい。「神が私たちを祝福してくださって、地の果て果てが、ことごとく神を恐れますように。」(7節)
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