「だから、こう祈りなさい。」主イエスは、このように語って、弟子たちに祈りを教えて下さった。その祈りを「主の祈り」として、私たちは祈り続けている。問100 「主の祈りの序言は、私たちに何を教えていますか。」答「(「天にまします我らの父よ」という)主の祈りの序言が私たちに教えている事は、私たちを助ける力と志をもっておられる神に、全くきよい崇敬と確信をもって、父に対する子のように近づくこと、また、私たちが他の人々と共に、他の人々のために祈らなければならない、ということです。」この祈りの序言、祈りの第一声は、天の神に向かって「父よ」と呼ぶ、親しげな呼びかけである。この短い呼びかけには、大切な真理が込められている。そのことを知ると、私たちの信仰は、大きな励ましと力、また慰めをいただくことができる。
1、生ける真の神は、全知にして全能の神、全く聖く、正しく、義なるお方である。罪ある者は近づくことができず、悪を厳しく裁くお方である。けれども、イエス・キリストを信じて、罪の赦しをいただいた神の民、神の子とされた者たちには、その神を「父」と呼ぶ特権が与えられるのである。主の弟子となった者、主イエスをキリストと信じて、新しいいのちに生きる者にとって、神は遠くにおられる方ではない。「父」として、私たちを愛し、見守り、養い、時には厳しく諭し、訓練も与えて下さる方、真に人格的な、生きておられる神である。「天にいます父よ」と、呼ぶことのできる神である。しかし、遠く手の届かない所におられるのではなく、祈りを聞いて、ご自身の手を差し伸べて下さる神なのである。神が「人格的」であるというのは、生きておられ、祈りを聞いて下さる方、祈りを通して、私たち人間が交わることのできるお方、そのような神という意味である。神を「アバ、父」と呼ぶ特権、その特権を神の側で備え、私たちを子として下さり、祈りにおいて、親しく呼ぶようにと、私たちは導かれている。(14〜16節)
2、天の父は、私たちが祈るのを待っておられる。「私たちを助ける力と志をもっておられる神に」とは、そのことを言い表している。「助ける力」と「志」を持っておられるだけでなく、喜んでそうしようと待って下さる神に、私たちは祈るように招かれている。それ故に、「全くきよい崇敬と確信をもって、父に対するように近づくこと」ができるのである。心からの畏れと敬いをもって、また必ず聞いて下さるとの信頼をもって、神に祈ることができる。子が親に近づく時の、疑いのなさは、真に尊いものである。「絶対的信頼」というもの、それ程の信頼をもって、父なる神に近づくことが許されている。それでも、私たちは側では、躊躇いがあるかもしれない。取税人が祈ったように、「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」(ルカ18:13)と、ただ祈るだけかもしれない。けれども、そんな私たちのために、「天にいます私たちの父よ」と、神に向かって「父よ」と祈る特権のあることを、主イエスは教えて下さっている。
3、この序言には、もう一つの大切な教えが込められている。それは「私たちの父よ」と、一人称の複数で祈るよう勧められていることである。「また、私たちが他の人々と共に、他の人々のために祈らなければならない、ということです。」神の民とされた者、神の子たちは、神の家族とされた者たちであり、私たちは、一人一人、個人として神に祈るだけでなく、イエス・キリストを信じる者として、互いに家族として覚え合って、共に祈り、他の人々のために祈るように期待されている。実際に、教会は「キリストのからだ」と言われるように、一人一人はバラバラではなく、互いに他を必要としており、結び合わされているので、だからこそ、「私たち」との意識、また思いは大切である。教会は、キリストにある「共同体」、また「有機体」と言われるのは、このことを指している。私たちは、天におられる父の前に出て礼拝をささげ、その父に祈りをささげているが、共に声を合わせて祈ることは、大きな励ましとなる。中でも、主の祈りを共に祈ることは、大きな力となって、キリストの教会は今に至っている。(コリント第一12:12-31、エペソ4:16)
<結び> 神を「私たちの父よ」と呼べる幸い、この幸いを見失わないようにしたい。しかしまた、余りも近しい方として、神ご自身の威厳を損なうことのないよう、大いに注意を払いたい。主イエスが、「天にいます」を付け加えて、父なる神に祈るよう教えて下さったのは、やはり私たちのためであると、確信することができる。父なる神は、「天にいます」方であり、余りにも身勝手に、私たちが神を引き下ろすことのないよう、気づかせて下さるのである。もちろん、手の届かない「天」におられるのではなく、上から、いつも見守り、助けの手を差し伸べようとして下さる神である。御子を遣わして、十字架の贖いを成し遂げ、御子が天に昇られた後は、聖霊を助け主として送って、いつも私たちを見守り、支えて下さっている。そのような神に、私たちは直接呼びかけ、祈りをささげることができるのである。「主の祈り」は、そのような確かな祈りであることを覚えて、この祈りを祈り続けたい。
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