「御言葉」と「礼典」と「祈祷=祈り」、この三つが「恵みの外的な普通の手段」である。これらによって、神が備えて下さった、キリストの十字架による救いの恵みは、キリストを救い主と信じる私たちに与えられる。私たちに必要なのは、ただ「信仰のみ!」である。そして、私たちが三位一体の神を信じて祈るなら、その祈りは、「真実な祈り」として、神に必ず聞き入れられる。けれども、私たちは尚、真実に祈れるものかと心騒ぐ。祈っていても、心は揺れ動き、こんな祈りは聞かれるのか、自問して恐れさえもする。小教理問答は、次のように続く。問99「神は、私たちに祈祷を教えるため、どんな基準を授けていてくださいますか。」答「神の御言葉全体が、私たちに祈祷を教えるのに役立ちます。しかし、その特別な指導基準は、キリストが弟子たちに教えられた祈祷文、いわゆる“主の祈り”です。」
1、神によって造られた人間は、誰でも自然に祈るとしても、そのままでは、時に的はずれな祈りをささげる私たちのために、神は、聖書全体を通して、「祈り」を教えて下さっている。その上で、主イエス・キリストご自身が、弟子たちに「だから、こう祈りなさい」と、「主の祈り」と呼ばれる祈りを教えて下さった。ルカの福音書によると、「私たちにも祈りを教えてください」と願った弟子たちに、主は、「祈るときには、こう言いなさい」と教えておられる。(ルカ11:1以下)簡潔で明解、単純で率直、幼子が父親に向かって、何の躊躇いもなく呼びかけ、願い求めるのが「祈り」であると、主は教えて下さった。確かに旧約聖書に、アブラハムの祈りがあり、モーセの祈りが記されている。ダビデの祈りもソロモンの祈りも、そして、ハンナの祈りが記されていて、私たちは、それらを模範、また手本のようにして祈りを学ぶことができる。詩篇には数多くの祈りが記され、そのまま自分の祈りとして祈ることもできる。祈りとは、願いが中心としても、激しい怒りや嘆きも込められ、敵を呪いさえする、そんな祈りも詩篇には記されている。
2、「祈り」は、実に多種多様な広がりを持っているのは事実である。そのような祈りの中心は願いであり、「神の御意志に一致する事のため」に祈るには、どのように祈るのか。その最高で最善の指針が、「主の祈り」なのである。願いがどんなに広がろうと、その根底は何か、何をどのように祈るのか、基本はこれと、主イエスが教えて下さった。明らかに、偽善者たちの祈りや、異邦人たちの祈りとは違うこと、私たちの心を注ぎ出すためには、「こう祈りなさい」と教えておられる。私たち人間の本性は、堕落により、はなはだ歪み、真実や聖さからは遠く離れてしまっている。そのために、祈りも、はなはだ不完全なもの、不真実となる。熱心さを追い求める余り、その熱心を人に見せたり、言葉数の多さに走るからである。神を待ち望むのでなく、祈る自分を頼むことをする。主イエスが弟子たちに教えようとされたのは、やはり、単純率直に神に祈り、神を待ち望むこと、その祈りの基本である。父なる神は、私たちが祈る先から、私たちの必要を知っておられるので、だから、私たちは祈ることができる。そのことを忘れないように・・・と。
3、私自身が「主の祈り」を初めて祈ったのは、10歳の頃であった。5歳頃に教会に行き始めてから、5年位が過ぎていた。最初の教会は、何故か「主の祈り」を祈らなかった。祈らなくてもよい・・・と。東京に引っ越して最初の日曜日、初めて祈った・・・と言うより、初めてこの祈りを聞いて、「これは何?」と感じた。けれども、やがて、この祈りは主イエスが弟子たちに教えられたもの、弟子たちが、「だから、こう祈りなさい」と教えられて祈ったものと知らされ、私たちもこの祈りを祈れること、祈れる幸いを理解するようになった。そして、主が「こう祈りなさい」と言われたことは、その通り、祈るように励まして下さっている!と、感謝するようになった。この祈りがあるので、私たちは、自分では祈りの言葉を失ったとしても、この祈りを祈ることによって、神を待ち望む道が、必ず備えられていると。「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようのない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。・・・」(ローマ8:26-27)「主の祈り」は、神の御心に叶うことについて祈るため、「特別な指導基準」として、私たちも祈るよう導かれているものである。
<結び> 「祈りは神の子たちの生活に不可欠の要素です。そのため神は祈りに対して多くの助けを与えてくださいます。私たちの内側の助けとして聖霊をくださいます。また私たちに外側の助けとして聖書を与えておられます。聖書全体は祈りに対する助けと指針を含んでいます。これらの一般的な助けに加えて、『主の祈り』という特定の実例が与えられています。」(ポール・G・セトル著・宇田進編訳「ウェストミンスター小教理Q&A107」問答99)聖書の中にある祈りの実例、そして詩篇が、私たちの祈りを豊かにしてくれる。聖霊に導かれ、また助けられて、私たちは祈ることができる。それに加え「主の祈り」は、一層私たちを励まし、力づけてくれる祈りである。礼拝で共に祈ること、また自分一人でも祈ること、折に触れて、この祈りによって、私たちの信仰が豊かにされることを感謝したい。私たちの弱さや愚かさを、全てをご存知の主イエスが、「だから、こう祈りなさい」と教え、導いて下さっているからである。
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