「御言葉」と「礼典」に続く、もう一つの「恵みの外的な普通の手段」は、「祈祷」である。この「祈祷=祈り」も、神が、罪人である私たちを救うために、御子イエス・キリストを十字架で身代わりの死を遂げさせ、贖いの代価を支払って下さったその恵みを、信仰によって、確かに与えるための手段として、私たちに備えられている。けれども、私たちが直感するのは、「真実な祈り」と「偽りの祈り」のあることではないだろうか。また「聞かれる祈り」があり、空しく「聞かれない祈り」があり、違いは、一体どこにあるのか。果たして、「真実な祈り」はどのような「祈り」なのか。問98「祈祷とは、何ですか。」答「祈祷とは、神の御意志に一致する事のために、キリストの御名によって、私たちの罪の告白と神のあわれみへの感謝に満ちたお礼を添えて、神に私たちの願いをささげることです。」
1、「祈祷=祈り」は、神によって造られた人間にとって、極めて自然な行為の一つである。神よって造られたことを信じない人も、確かに祈りをささげている。真実な本当の祈りをささげているのか、それとも、祈りはしていても、果たしてそれは祈りなのか・・・という、大きな疑問が生じる。小教理問答は、明らかに「真の宗教」と「偽りの宗教」のあることを、はっきりと意識し、「真実な祈り」はこのような「祈り」であると、指し示している。真実な「祈り」は、キリストを信じて救いの恵みに導かれた私たちが、その信仰を育まれ、いよいよ神に信頼して生活する上での、具体的な手段なのである。「御言葉」が心の「糧」であるとすれば、「祈り」は、心にある思いを神に告げるための「呼吸」のようなもの、と言われる。確かに、真実な宗教は、人の心に関わるものである。偽りの宗教は、人の心に迫りつつ、この世の目に見える事柄に人々を誘導する。キリスト教会こそ、そして私たちこそ、真実な祈りと偽りの祈りについて、細心の注意が必要である。主イエスご自身が、はっきりと警告しておられるからである。「また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。・・・」(5〜6節)
2、「祈り」の中心は、確かに願いである。その願いの内容は、「神の御意志に一致する事のため」であること、それが肝心である。私たちは、懸命に神の御心を探り、その御心を知って、それに合わせて祈ることができるのだろうか。それは不可能であろう。むしろ、願い事を、正直に、また熱心に祈り続けてよいのである。神は、私たちの必要をご存知であり、その必要を満たそうとして下さることを知るなら、私たちの人生の全てを委ねる信仰をもって、信頼して祈ることができる。(7〜8節、ピリピ4:6-7)そのような祈りは、偽善者や異邦人たちの祈りとは、全く異質である。偽善者たちの祈りは、人に見せるものであって、神に届かせるものではなかった。また異邦人たちの祈りは、偽りの神々に祈るもので、聞かれる根拠はなく、空しく繰り返すだけとなっていた。私たちが心を注ぎ出し、神に願い求める祈りをささげるのに、大事なのは、「キリストの御名によって」である。キリストが、私の身代わりとなって十字架で死なれてことを信じるからであり、キリストご自身が、「わたしの名によって求めなさい」と、弟子たちに語られたからである。私たちは、キリストがおられるので、神に祈ることができる。これは、祈る時に、必ず「キリストの御名によってお祈りします」と言わねばならない、と言うことでなく、キリストの十字架を信じ、その仲立ちを信頼して祈ることである。
3、その肝心なことについて、「私たちの罪の告白と神のあわれみへの感謝に満ちたお礼を添えて」と、言われている。主イエス・キリストの御名によって祈るのは、キリストが私たちの罪の身代わりとなって十字架で死なれたと信じるからであり、自分の罪を認め、それを告白しつつ祈ることに他ならない。罪を赦された者として祈るのであって、心を低くして祈るのである。私たちは、「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」と、そのように祈るしかない自分を見出すだけである。(ルカ18:13)そして、神のあわれみに、ただただ感謝する。私たちは、願いの痛切さや切迫さの余り、感謝を忘れるかもしれない。そのような時、自分が、聖なる方、愛に富むお方の前に、ふさわしい者なのかを問い、私のために十字架で死なれた方、「キリストの御名」によってのみ、神に祈ることができる幸いを覚えなければならない。私たちの祈りは、キリストの御名によって祈る時、確かに聞かれる「真実な祈り」となるのである。私たちは、必ず聞かれる祈りささげるのであって、神の御意志に一致する事のために祈る祈りを導かれている。時に祈りの言葉を失ったとしても、私たちは尚も、切なる呻きをもって祈ることを許されている。その幸いは計り知れない。(ヨハネ第一5:14-15、ローマ8:26-27、ピリピ4:6-7)
<結び> 主イエスは、最後の晩餐の席で、次のように語られた。「あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。」また、そのように祈りをささげる時には、聖霊が助け主として、弟子たちとともにおられることを約束しておられた。(ヨハネ16:23-24、14:13-16)すなわち、私たちキリストを信じる者の祈りは、実に三位一体の神を信じる者の祈りであることを、主ご自身が教えて下さっていた。私たちの祈りは、キリストの名によって、父なる神に願いを祈るものであって、その祈りを聖霊が導き助けて下さる。天の父に、キリストの名によって、聖霊に導かれて祈る祈りが、「御心にそう真実な祈り」なのである。その祈りは、三位一体の神が、必ず聞き上げて下さる祈りとなる。だから私たちは、信じて祈り続けることができる。真実な祈りをささげるよう招かれている私たちは、真に幸いな者であることを感謝したい。
(詩篇62:5-8)
|
|