礼拝説教要旨(2014.09.28) =ウェストミンスター小教理問答<97>=
ふさわしい礼拝者 
(コリント第一 11:23〜34)

 「主の晩餐=聖餐式=」は、キリストが制定された礼典である。キリストの十字架の死を覚え、その死の意味をよく理解し、信仰をもって、その礼典に与ることが、何よりも肝心なことである。パウロは、コリントの教会の人々に向かって、聖餐式を尊び、それを空しく繰り返すことのないよう、注意を促していた。そして、その礼典に臨む上での心構えを語る。(27節以下)その内容は、次のように纏められる。 問97「主の晩餐をふさわしく受けるには、何が求められていますか。」 答「主の晩餐にふさわしく参加したい人には、次の事が求められています。すなわち、主の御体をわきまえる知識・キリストを糧とする自分の信仰・自分の悔い改めと愛と新しい服従について、自己吟味することです。それは、ふさわしくないままで来て、その飲み食いによって自分にさばきを招くといけないからです。」

1、「主の晩餐」をふさわしく受けるために、何が求められているのか。それは、キリストを救い主と信じる自分の信仰について、自分でよくよく問い直し、その信仰に立つことを確認することと言われている。くれぐれも、ただぼんやりとパンを食べ、杯を飲むことのないように、キリストの十字架の死をはっきり覚え、身代わりとなられた主を仰ぐこと、それなしに聖餐式に臨むことのないように・・・と。(27〜28節)「主の御体をわきまえる自分の知識」については、罪のない主イエスが、十字架で身代わりの死を遂げられたことを、しっかりと理解することである。「キリストを糧とする自分の信仰」とは、私の身代わりとなって死なれたキリストを、確かに信じているかどうかである。そして「自分の悔い改めと愛と新しい服従について」は、私自身が自分の罪を悔い改め、心からの愛をキリストにささげ、この方に従いたいと、本当に願っているのかである。そのようなことについて、自分で自分に問いながらパンと杯に与ること、それが肝心なことである。もし、自己吟味なくそれを受けるなら、自分自身をも欺くことになる。だから、決して、自分にさばきを招くことのないように、と警告されている。(29〜30節)

2、コリントの教会においては、「主の晩餐」は、会衆が共に食事をする「愛餐」の席で、余り明確な区別なくなされていたようである。そのため、愛餐の場そのものが乱れ、「主の晩餐」がおざなりになされていた。(20〜22節)飲食が乱れ、それに伴って健康が損なわれることが、実際にあったと思われる。「弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大ぜいいます」という、痛みを味わっていた。これは、病気は神の裁きである、ということでなく、その当時、明らかに神の裁きと分かることが、教会の中に起こっていたと考えられる。だからこそ、「しかし、もし私たちが自分をさばくなら、さばかれることはありません。しかし、私たちがさばかれるのは、主によって懲らしめられるのであって、それは、私たちが、この世とともに罪に定められることのないためです」、と言われている。(31〜32節)もし私たちが、自分の不注意や無理解、また不信仰によって、難題を背負うことがあるとしたら、それは「主によって懲らしめられるのであって」、神の怒りが注がれているわけではない。かえって悔い改めへと招かれ、罪を離れ、神の恵みの中に立ち帰らせていただくための、特別な導きであって、そのことに気づく人は、真に幸いである。

3、「主の晩餐」の祝福と恵みは、何よりも、救い主キリストの十字架の出来事に心を向け、十字架の死によって、私たちが、滅びからいのちへと移されたことを覚えさせていただくことにある。けれども、十字架を振り返るに止まらず、「主が来られるまで、主の死を告げ知らせる」という、壮大な役割も、私たちは与えられている。この礼典に与る度に、自らを吟味する私たちは、キリストを信じる信仰を堅くされ、キリストへの愛、また新しい服従を増し加えていただき、力を受けて、十字架の出来事を証しし続けるのである。その時、私たちは、神の前にふさわしい者であるのか、ふさわし礼拝者であるのか、自己吟味することが求められている。そのような自己吟味は、聖餐式に臨む時に止まらず、主の日毎の礼拝に臨む時にも成すべきことで、私たちは、絶えず、自分がふさわしい礼拝者であるかを問いつつ、神の前に出るのである。注意すべきことは、神の前に自分を問いつつ、「自分はふさわしくない」と判断する時である。「主の晩餐を受けるにふさわしくない・・・。」その私のために、キリストは十字架で死なれたことを知って、パンと杯を受けること、それを見失ってはならない。主イエス・キリストが十字架で死なれたのは、罪に沈んだ、全くふさわしくない私のためであったからである。キリストの前にふさわしくないと思う時こそ、心からの感謝をもって聖餐式に臨み、パンと杯を受ける者となることが大事なのである。(※参照:大教理問答172)

<結び> 「主の晩餐」を大切にすればするほど、全ての礼拝や集会も、同じく大切であり、私たちが主の前にふさわしいか否か、自己吟味することが導かれるに違いない。そのようにして、教会に集う私たちは、自分のことだけでなく、互いに主の前に、尊い存在であり、無くてならない存在であることを、より深く知ることを大切にすることを学ぶなら、それは大きな祝福となる。コリントの教会で、愛餐と主の晩餐が入り交じっていたことは、何か教訓的に思える。気の合う仲間で愛餐を囲み、それによって主の晩餐が疎かになっていたのである。パウロは、主の晩餐を正して、その上で愛餐を正そうとしていた。(33〜34節)一人一人がふさわしい者となり、ふさわし礼拝者が集まって、教会はキリストの身体として建て上げられることを、しっかりと心に刻みたい。主の日毎に礼拝をささげ、また第一週毎に聖餐式を行い、その祝福と恵みを受けて、成長させていただくのである。私たちは、神ご自身によって、信仰から信仰へと、成長させていただいていることを覚え、その成長している実を見させていただきながら、確かな歩みをさせていただくよう祈りたい。(コリント第一3:6-7、マルコ4:26-32)