礼拝説教要旨(2014.09.21) 
主の晩餐の祝福と恵み
(コリント第一 11:23〜26)

 キリストを信じて与えられる救いの恵みは、御言葉によって明らかにされ、私たちは、その救いの約束を信じて歩み始めた。その私たちのため、キリストは礼典を定め、信仰から信仰へと進むよう、確かな導きを備えて下さっている。「洗礼」は、私たちが「キリストのもの」とされたことの「証印」であり、私たちの教会は、三位一体の神の御名による「洗礼」を、キリストへの信仰を言い表した人に授け、その洗礼の恵みに与った人の子にも授けている。キリストが命じておられ、聖霊に導かれた世々の教会が、それを守り続けているように、私たちも歩み続けるのである。主イエス・キリストは、もう一つの礼典、「主の晩餐=聖餐=」を定めて下さった。私たちは、この礼典においても、神が備えて下さった祝福、救いの恵みの豊かさを味わうよう導かれている。

1、問96「主の晩餐とは、何ですか。」 答「主の晩餐も、ひとつの礼典です。そのとき、キリストの指定にしたがって、パンとぶどう酒を与え、また受けることによって、キリストの死が示されます。また、ふさわしい陪餐者が、身体的、肉的な仕方でではなく信仰によって、キリストの体と血を、キリストのあらゆる祝福もろとも分け与えられて、霊的に養われ恵みのうちに成長するのです。」 「主の晩餐」を、私たちは「聖餐式」と呼んで行っている。この「聖餐式」も、キリストが定められた「ひとつの礼典」であることを、私たちは信じて行っている。キリストが十字架につけられる前、最後の晩餐の席で弟子たちに命じておられた。パウロは、そのことを明言している。(23〜25節)「主イエスは、パンを取り、感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。」しばらくの後、十字架でご自分の身体が裂かれることを、はっきりと知っておられた。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」杯について、「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい」と。十字架で流される血について、杯のぶどう酒によって覚えることを命じておられたのである。

2、キリストによる罪の赦しは、キリストが、十字架で身代わりの死を遂げることによってもたらされる。イエス・キリストを信じる者は、その十字架の身代わりを信じるのである。これが、十字架による贖いの業の意味するところである。身代わりとなられたキリストを信じ、救いの恵みを受けた人が「洗礼」を受け、その恵みを覚え続けるように、「主の晩餐」に繰り返し与り、十字架の御業を告げ知らせる。その時、十字架の死を覚え、主イエス・キリストの愛、また苦悩を心に刻みつつ、キリストのものとされた人への祝福を、パンと杯を受けつつ、信仰によって味わうことになる。それは、無理矢理そのように思い込むことではなく、霊的な祝福として、主ご自身が与えて下さることを信じるのである。このことは、ローマ・カトリック教会において、パンとぶどう酒が、キリストの体と血そのものに変わる、と主張することとの違いである。パンはあくまでも、キリストの体の象徴であって、杯のぶどう酒も、キリストが流された血を象徴している。キリストを信じる者が、信仰によって、この礼典を受けることが、何よりも尊いことなのである。

3、「主の晩餐」について、通常、私たちが「聖餐式」と呼ぶものを、カトリック教会は、「聖体拝領」または「ミサ」と呼ぶ。そこには、明らかに二つの品(パンとぶどう酒)が、キリストの体と血そのものに変わるという理解がある。=化体説= またルーテル教会では、パンとぶどう酒が変わってしまうことはないが、キリストの体と血が、そこに共に在ると主張される。=共在説= そして、プロテスタント教会でも、二品は象徴であるだけとするもの=象徴説=があり、それに対して、改革派や長老派は、パンとぶどう酒に、キリストは霊的に臨在されると考える。=霊的臨在説= 私たちは、この最後の考え方であり、キリストは「聖餐式」が行われている場に、霊的に臨在して下さり、私たちが、信仰をもって、パンとぶどう酒を受ける時、キリストご自身によって霊的に養われ、いよいよ恵みの内に成長させていただくことになる。その度に十字架を仰いで養われ、十字架の恵みの豊かさ、神ご自身の愛の深さや大きさを知るのである。私たちは、キリストの十字架の身代わりによって、罪を赦され、神の子とされ、この世にあって、神の聖さに倣う者として生かされていることを覚えることになる。また、そのキリストの十字架を伝え続ける、尊い役割も担わせていただいている。(26節)

<結び> 「主の晩餐」によって、「キリストの体と血を、あらゆる祝福もろとも分け与えられて、霊的に養われ恵みのうちに成長するのです」という時、「ふさわしい陪餐者が、身体的、肉的な仕方でではなく信仰によって」、と言われていることを、やはり心に留めたい。洗礼も同じである。目に見える形での礼典は、それ自体で厳かであったり、何か強烈な威力を発揮するなり、人はそのような経験を求める傾向がある。聖餐式のぶどう酒は、文字通り「ぶどう酒」がよい・・・とか。(※いかがわしい宗教では、強烈な飲み物が用意されていたりする。幻覚症状を起こさせ、さも効果があると思わせる等々。)けれども、キリストが定めて下さった礼典は、信仰をもってそれを行うこと、そして、霊的に恵みを受けること、そのことがいのちである。私たちは、その一番大切なことを大事にして、この礼典を守り続けたい。

 何よりも、キリストへの信仰を言い表す人が起こされ、増し加えられることを願って、真実に歩み続けたいのである。時に、教会の歴史は、洗礼を受ける人を水増ししたい欲求に誘われたり、また、主の晩餐に与る人の枠を拡大したり、様々な欲に惑わされている。しかし、私たちは、「信仰によって」を大切にし、神ご自身が祝福し、恵みを注いで下さることを求め続けたいのである。