イエス・キリストを救い主と信じ、たましいの救いを与えられた私たちは、神の前に罪人であることを認め、その罪を悔い改め、クリスチャンとして歩み始めた。その始まりには、自分自身の決断があり、神の導きに対する応答が確かにあった。けれども、その全ての背後で、神ご自身が聖霊の働きによって、私たちを支え導いておられたのである。神は御言葉を備え、礼典を定め、祈りを導き、恵みを取り次ぐ外的な手段を万全に備えておられる。それら全てが、聖霊の働きによって尊く用いられ、私たちは信仰へと導かれている。み言葉に加えて、礼典が定められ、私たちは一層、信仰が養われ、強くされる。問答94と95は、その「礼典」の一つ、「洗礼」についての理解である。
1、問94「洗礼とは、何ですか。」 答「洗礼とは、ひとつの礼典です。そのとき、父と子と聖霊の御名によって水で洗うことが、私たちがキリストにつぎ木され、恵みの契約の祝福を分け与えられ、主のものとなると約束することを、表わし証印するのです。」 「洗礼」は、「父と子と聖霊の御名によって水で洗う」、そのようにする「ひとつの礼典」である。わざわざ、「ひとつの」と加え、キリストが定められた、二つの礼典の内の「ひとつ」であると、強調している。同時に、「水で洗う」ことを告げ、「父と子と聖霊の御名によって」と、三位一体の神の「御名によって」授けられることを明らかにする。問答91で触れた、「礼典そのものや礼典執行者の中にあるどのような力でもありません」の、根拠が語られている。「洗礼」は、神の「御名」、それも「三位一体の神の御名によって」授けられることが、何より大事なことなのである。執行の仕方や執行した者のことを、大いに気にするのが世の常である。執行の仕方について、覚えるべきは「水で洗うこと」である。水を使うことによって、罪が洗われ清められ、聖とされること表し、キリストによって罪の赦しが与えられることを、生き生きと心に刻むことになる。
2、キリストによって罪を赦され、清められた者は聖とされ、キリストのものとされる。洗礼によって、初めて清められるわけではなく、既に聖霊によって生まれ変わった者を、神ご自身がキリストのものと認めて下さる。キリストに接ぎ木され、恵みの契約の祝福を受け継ぐ者であること、主の民であることの証印を押すこととして、洗礼を授けて下さるのである。パウロが、「キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。・・・」と語るのは、キリストを信じて洗礼の恵みに与った者は、「キリストにつぎ合わされ」、キリストと結合した者、キリストと一体となっていることを、はっきり自覚するよう勧めることにあった。キリストにあって、罪に死に、キリストにあって、新しいいのちに生きる者となっている、それが私たちではないか・・・と。洗礼によって明らかにされる恵みは、キリストが十字架で死なれたことを覚えるのに止まらず、その死からよみがえられように、私たちも「いのちにあって新しい歩みをするため」、また「必ずキリストの復活と同じようになるからです」と、この地上で肉体の死を迎えても、必ず復活の望みに生きる者されることにある。洗礼は、救いの恵みを目に見える形で表す、まさしく「しるし」であり、「証印」である。キリストご自身が、「あなたは、わたしのもの!」と。(3〜5節)
3、問95「洗礼は、だれに執行されるのですか。」答「洗礼は、可見的教会の外にいる人には、キリストへの信仰と服従とを告白するまでは、だれにも執行してはなりません。しかし、可見的教会の会員の幼児は、洗礼を受けなければなりません。」 「洗礼」は、その人が「主のもの」であるしるしである。従って、洗礼に与るには、キリストへの信仰と服従を告白することが求められる。目に見える地上の教会の歴史において、信仰の告白と洗礼が、とても大事にされてきたのはそのためである。洗礼によって救われるのではなく、救いに与った、その信仰を告白する人に対して洗礼を授け、教会の純潔と一致と平和を尊ぶのである。その上で、既にキリストのものとされた人の幼児について、彼らは、洗礼が指し示す恵みの中に、確かに入れられているので、「可見的教会の会員の幼児は、洗礼を受けなければならない」と言われる。救いの恵みは、神の一方的な御業である。その救いに与った者のしるしとして「洗礼」があり、その子どもについて、恵みの外にあると言うことはできない。かえって恵みの内にあると理解し、主のものであるしるしとしての「洗礼」の恵みに与るのは、自然であり、権利であることを認め、それに従うよう勧めている。洗礼の恵みに与った幼児たちは、やがて自分の意志によって、信仰を告白する日を迎えるよう、祈られて育つのである。
<結び> 「洗礼」を受けるのか、受けないのか、いつの時代、どこの国にあっても、その決断をするには、それなりの戸惑いがあったり、勇気が求められる。NHKの大河ドラマ「軍師・官兵衛」で、官兵衛が高山右近に勧められ、洗礼を受けたことが描かれていた。戦国の時代に、キリストの福音に触れ、この日本の国にあって、洗礼を受ける人が次々と起こされていた事実は、驚きであり感謝である。本当の拠り所、真の平安が、聖書によって明らかにされていたからに違いない。高山右近という人は、どんなに信仰を捨てるよう迫られても、決して揺るがず、遂には、フィリピンのマニラに追放され、そこで生涯を終えている。この世では報われなかったかもしれない。けれども、新しいいのちに生きることを貫いたのである。神に従う者に、神は最後まで目を留めておられ、天の故郷へと迎え入れておられた。私たちも、洗礼の恵みに与ることが、私たちが考えているより、はるかに尊いことであり、そこには、祝福が溢れるほどに用意されていることを、はっきりと信じる者とならせていただきたい。そして、救いの恵みを証しする者とならせていただこうではないか。私たちは、自分を良く見せる必要もなく、上手に語らなければならないわけではない。父と子と聖霊の御名による洗礼によって、確かに注がれた恵みや喜びを、心から喜んで生きているなら、その生きる姿を、主ご自身が用いて下さるに違いないからである。(6〜11節)
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