礼拝説教要旨(2014.09.07) 
恵みの手段としての礼典
(コリント第一 3:4〜9)

 私たちが、イエス・キリストを信じて救われるためには、造り主なる神の前に罪人であることを認め、その罪を悔い改めることが求められている。ところが、神に背いている人間は、自分から罪を認め、悔い改めることはしない。そんな私たちが、心を開き、悔い改めと信仰に進むために、神は御言葉を備え、礼典を定め、そして祈りを導き、それらを恵みの外的な手段として用いるよう、万全に備えておられる。私たちの心は、聖書の御言葉を聴く時、聖霊に助けられて開かれ、その教えに聞き従うように導かれる。御言葉に対して、素直に応答し、神の民、クリスチャンとして歩み始めるのである。(※その応答について、恐らく皆な、「不思議」な経験をしている筈・・・。)

1、「御言葉」が、「恵みの手段」として働くのは、聖霊の働きを通してである。聖霊が、私たちの心の内に、キリストへの信仰と、罪の悔い改めを起こして下さるからである。それによってのみ、神の元に決して立ち帰ろうとしない、私たちの心は開かれる。だから「救いは恵みによる」のである。この恵みの業が、揺らぐことなく継続するため、私たちが心掛けるべきことは、御言葉を読むことであり、聞くことである。それに加えて、神が備えて下さっているのが、「礼典」である。それは、キリストを信じ、たましいの救いを与えられた者のため、その救いを目に見えるしるしをもって確信できるように、神ご自身が、キリストを通して定められたものである。ところが、私たち人間は、目に見えるしるし、感覚的に確認できる何かがあると、たちまち、その行為そのものに頼り始める。その過ちを犯さないために、問答91を聞くことが大事となる。 問91「礼典が、どのようにして救いの有効な手段となるのですか。」答「礼典が救いの有効な手段となるのは、礼典そのものや礼典執行者の中にあるどのような力によるのでもありません。ただ、キリストが祝福してくださることと、信仰によって礼典を受ける人々にキリストの御霊が働いてくださることによるのです。」(5〜7節)信仰を育んで下さるのは、ただ神のみ。

2、「礼典」が執り行われる時、それ自体を厳格に行い、やがて荘厳さを求めるようになったのが、教会の歴史であった。けれども、それ自体の中に、いかなる魔術的な力はないと、はっきり覚えなければならない。時に、礼典を執行する者の地位や権威を頼る誘惑があっても、それは退けなければならない。「ただ、キリストが祝福してくださることと、信仰によって礼典を受ける人々にキリストの御霊が働いてくださること」、これが肝心である。私たちは、御言葉に従い、目に見える礼典が指し示す霊的真理と祝福を、霊の目をもって受け止めることが求められている。「礼典」は、キリストご自身が定められたものである。 問92「礼典は、何ですか。」 答「礼典とは、キリストが制定されたきよい規定です。そこでは、キリストと新しい契約の祝福とが、感覚的なしるしによって信者たちに示され、証印され、当てはめられるのです。」 ここで言われる第一は、キリストが制定されたもの、それが「礼典」であること、第二は、「礼典」は、福音がもたらす祝福を、「しるし」をもって示し、「証印」を押し、信じる者に保証するもの、ということである。それ故に、キリストを信じた者が、信仰をもって礼典に与ることによって、その一人一人は、益々、恵みを受けて強くされ、豊かに養われる。神が、聖霊の働きにより、信じる私たちと関わって下さるからである。

3、問93「新約の礼典は、どれですか。」 答「新約の礼典は、洗礼と主の晩餐です。」 イエス・キリストの十字架と復活の出来事の後、ペンテコステを境に、新約の教会の歩みは目覚ましいものとなった。福音は異邦人の世界へと広がり、この日本で、私たちがキリスト教会に連なって、クリスチャンとしての歩みを導かれている。教会は大別して、ローマ・カトリック教会とプロテスタント教会に分かれているが、プロテスタント教会では、キリストが制定されたのは、「洗礼と主の晩餐」(※「洗礼式と聖餐式」)と信じている。新約聖書を通して、キリストが命じておられるのは、この二つだけだからである。主イエス・キリストは、最後の晩餐の席で、パンと杯により、十字架の死を記念するように命じられた。そして復活後、天に昇られる少し前に、バプテスマ(洗礼)を授けるよう弟子たちに命じられた。(マタイ26:26-29、28:19-20、コリント第一11:23-25)カトリック教会が「秘跡」と呼び、全部で七つの秘跡があるとするものには、キリストが命じていないものが含まれている。(「洗礼」「聖体」「堅信」「改悛」「結婚」「叙階」「終油」)。キリストによる制定こそ、キリストの教会にとって、「礼典」を守り続ける根拠である。また、地上の教会の業には、私たち人間が関われることに限界があることを認め、教会に連なる一人一人を、神が養い、育て、成長させて下さることを信じ続けるのである。

<結び> 神ご自身が、キリストを通して定めて下さった「礼典」は、それ自体の中にも、また、それを執り行う者にも、何か特別な力があるのではない。それでも、その礼典には、霊的な祝福が豊かに備わっているので、礼典に与る人の信仰が、礼典によって大いに養われ、力強くされるのは、一人一人の経験によって明らかである。クリスチャンとして歩む者は皆、キリストを救い主と信じて救われ、洗礼の恵みに導かれている。キリストを信じても、洗礼を受けないままクリスチャンとして歩む人もいるかもしれない。神ご自身が、その人の心の内をご存知で、その人の救いについて、全てを引き受けておられるに違いない。けれども、キリストを信じた者に「洗礼」を授けることを、キリストご自身が命じておられるのは、それによって、信じた者に対し、祝福の「しるし」を与え、また。ご自分の民である「証印」を押して、「あなたはわたしのものである」と公にして下さるためである。そして、その人たちによって「主の晩餐」が守られることを、キリストご自身が願っておられるのである。今日、私たちの教会は、そのキリストご自身の制定に従って、洗礼式と聖餐式を守り続けている。この二つの礼典に与る人が、一人また一人と、増し加えられることを心から願っている。パウロが語っていること、「私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。それで、たいせつなのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです。」との言葉を、私たちも心に刻んで、前進させていただきたい。