礼拝説教要旨(2014.08.31) 
神をたたえる
(詩篇145篇1-7節 加藤正之師)

詩篇の145篇は詩篇の最後の日本で言う「いろは」歌です。
 また、1-21節はアルファベットの文字の順に従って、各節の冒頭の文字が始まっています。日本の数え歌やいろは歌のようにして書かれています。

ところで、なぜ145篇は「いろは」 歌なのでしょう。いろは歌にした作者の意図は何なのでしょう。作者の技巧を誇るためでしょうか。もしそうなら、この神をほめ歌う目的に矛盾することになるでしょう。 まさに作者の意図は、偉大な神を讃えることの喜びを知ってもらいたくて工夫を凝らしたのではないでしょうか。誰もが覚えやすく、声を合わせて朗読ができるように工夫されました。礼拝や食事の時などで用いられました。

 この作者に 偉大な神の力と愛のすばらしさを、多くの人に知ってもらいたいと願う熱い思いやりを感じさせられます。その熱心な思いに何千年後の私たちの魂にも共鳴しますように。

145:1 の前に
 「ダビデの賛美」との説明がありますが、この「賛美」という言葉は、詩篇表題中、ここにしかありませんから、それまでの篇とは違った意味合いを持つていることが考えられます。

このことで、注解書(カイル&デリッチKeil and Delitzsch) は、この歌の前の144篇と共にこの次の146篇以下を終りに導く「頌栄」に当たるものとして短く説明しています。 「頌栄」とは神の御栄光を みんなで声を合わせて讃えることです。

この「いろは歌」は単なる粋な暗唱ゲームと言う遊び心にあるのではないことは言うまでもありません。永遠に霊的に存在し給う神に、実際に口をあけて、声を出して心からほめ讃えて神との幸いな交わりに生きるために、私たちの人生の牽引車としてこのみ言葉にすがりたいと思います。 そういう賛美の時間と場を、人々との間と神との間で永遠と言う霊的世界の今を共有しているのが礼拝ではないでしょうか。
 
そこで、聖書の一節です。
 【新改訳改訂3】
「私の神、王よ。私はあなたをあがめます。あなたの御名を世々限りなく、ほめたたえます。」

「私の神、私の王よ。」と呼びかけます。(晩年も人生のすべてを生きて、終りが迫るときにも)私はあなたをあがめます。あなたの御名を世々限りなく、ほめたたえます。」
 ダビデ自身一国の王として導かれ、周辺の王侯たちに追われ、生死の境をさまよい、戦いの明け暮れの中で、生涯の大半を費やしました。 その中で大失敗もありました。謀反にも会い、自分も、自分を慕う忠実な部下を裏切り、殺害の大罪を犯しました。それゆえの生まれたばかりの幼子さえ取り去られるという悲哀味も経験しました。 「私の王よ。」と呼びかけるとき、この世での託された最高の権威と力の偉大さを知ってのことです。と同時に 「この世の王たちと さして違わない存在の希薄さ」も知って呼びかけている言葉です。永遠の神の前には、誰でも現れては消える泡のようなはかなさ軽さを生きています。

しかしダビデは呼びかけます。大胆です。王の王よ。あなたこそ、全ての王位の遥かな上にある「真の王よ」と、いや、ダビデが呼びかけている「王」とは永遠の世界に座しておられる「神」を示しています。
だから、わたしは「あがめ」ます。「よよ限りなくです。」  「よよ限りなく」の言葉は「永遠」の言葉の意訳です。時間の長さではなく、この世の時間を超えた次元です。「あがめます」は高くするの意味があります。ですから、この「永遠」の言葉は、この世の次元を超えたずっと遥かに高くにおいて、つまり「永遠の存在者」として、何よりも遥かに高くにおいて意識されるべきお方でした。この方を置いて他に大切なものあるのでしょうか。                       

そして、人はどんなに長く生きても高々90年です。でも、神に捉えられた人生は今、すでに永遠に生きています。(ヨハネ6:47,54、エペソ2:6) 永遠の存在者にいます懐に捉えられた神の子たちこそ、今です。今であっても今を永遠の御腕の中で その方を賛美する特権に生きている者です。
しかし、そうあったとしても、ダビデは選民意識に身を置かず、たとえ、この世で偉大な王でも、神の前には塵、芥でしかありません。遥かに、遠くの下方で小さく身を縮めて礼拝する者としてのダビデの姿がそこにあります。

145:2
【新改訳改訂3】
わたしは日ごとにあなたをほめ、世々限りなく御名をほめたたえます。

初めの方のほめたたえるは例の「祝福する」の言葉と同じ言葉でした。神の方からこの言葉が用いられると「祝福」と訳されますが、人の方から神に向かって用いるときは 「ほめたたえる」と訳されています。
2番目の「ほめたたえる」は「ハレルヤ」と同じ言葉が使われています。ハレルヤには輝く、光をパッと現すとか 誇る、「讃えるのにふさわしくされる」の意味があります。何か人を明るくさせる言葉です。
このように 「ほめたたえる」 のことばには形を変えた言葉があって、さすがは神を讃える民の国の言葉は豊かです。言葉が貧弱であれば、ただ、「ほめ讃えます。」の単調さ一点張りなら、貧弱な感性を生み、やがて、言葉にも人格にも輝きを失うことでしょう。
 神を讃えるのに暗い顔で「ハレルヤ」はあり得ないことです。どこにもない真の神における交わりにおいてこそ尽きることない日々の新 しい発見があり、神からの取り扱いがあるので、連日、口癖ではなく本当に144篇の9節にあるように心を新しくして新しい歌を歌う人に変えられたいものです。
 それは人の力や努力でなされるものではなく、私たちが心からの願いを、永遠の愛の主は喜んでそうしてあげたいと思っておられます。祈りの中で聖書を読み、真に御言葉を愛して従っている先輩教師たちに学びたいものです。
  ダビデの数々の詩の中には人生の躓きや悲しみあり喜びありの人生が歌われています。また神に対する嘆きや恨み事に見える歌さえあります。しかし、人生の最終章に来て、日々、神を讃える人生のすばらしさを歌う頌栄の人生へと導かれたのです。

145:3      
【新改訳改訂3】
【主】は大いなる方。大いに賛美されるべき方。その偉大さを測り知ることができません。

神は大いなる方だから。
 主は大いなる方、大いに(非常に豊か)なる方であり測り知れない方です。この世界を、大宇宙をごらんなさい。量り知れないほどの偉大さです。私たちの思考を遥かにこえています。量れないから、これを言葉にする方法もなしです。この測り知れない方との交わりが許されています。その測り知れない永遠なる方との交わりを持つだけでも、その方の影響は計り知れないものがあると思います。

145:4
【新改訳改訂3】
代は代へと、あなたのみわざをほめ歌い、あなたの大能のわざを告げ知らせるでしょう。

この方への賛美は一世代で終わりません。それは歴史を貫きます。その「大能」は力の言葉が用いられています。この力は5節の主権遂行に伴う力でもあり、6節の恐ろしい力と連絡して理解すことも可能です。永遠の神との交わりはどんな、歴史に出会っても尽きることはありません。大自然はいつの世代にも輝いています。神の支配と不思議な導きは多くの国々の歴史の中で輝いています。そのほめ歌はいつの代にも語り告げられていきます。
そして、この御業は「救いの業」を示すと注解書にも説明されています。主は何事も魂の救済と復帰を望まれておられます。その意味なくし何の力でしょう。また、何の歴史でしょう。単なる力自慢の意味で神を誉めるのは真の賛美ではありません。神の愛と犠牲を惜しまないで御意志を遂行する力にこそ栄光がありました。

145:5
【新改訳改訂3】 私は栄光輝くあなたの主権と、あなたの奇しいわざに思いを潜めます。

神の栄光の輝きと主権とその不思議な御業を深く思います。あるいは思いを深めます。「栄光輝く」は栄光の飾り、威厳の意味があります。 「主権」には尊厳の意味もあります。威厳と尊厳の言葉の背後には神の力が前提とされていますから、6節の力につながる言葉です。そして、力は神のここにある「栄光輝くあなたの主権」とともに4節の大能に密接しています。
「栄光と力」の並記は聖書の多くの箇所で見出されます。同時に魂の救いの目的の遂行する力の中に栄光の姿が見出せます。(詩篇29:1,2、) 1例を挙げれば、ヨハネ福音書2:11のカナの婚礼で大いなる御業を行ったとき、「栄光」を現されたと著者は表現しています。御業には神の大能の力前提とされています。それを「最初のしるし」として表現していますが、何のための「しるし」だったのでしょう。それは「救い主」としてのしるしです。そこには救済の神の愛の意志が示されていたのです。神の意志が力をもって遂行されていくとき、神の栄光があらわされたのでした。神の奇しい御業にこそ、神の栄光に思いを深める深い神との交わりの時が伴います。

145:6
【新改訳改訂3】 人々はあなたの恐ろしいみわざの力を語り、私はあなたの偉大さを述べるでしょう。

「恐ろしい」は恐るべきとか恐ろしいほどのと表現される言葉です。その恐ろしさは現象を伴います。外見的な場合もあれば内面的なものもあります。しかし、それがどうあれ神は常に愛の意志を持ってそれを行います。シナイ山での現象はイスラエルの民を震え上がらせました。(出エジプト19:16)ペテロは変貌山で輝く主の前で恐れてひれ伏しました。マタイ17:6 しかし、後に彼はその出来事を忘れずに心に蓄え、弱い者たちを励ましました。(Uペテロ1:16-19)

145:7
【新改訳改訂3】
人々はあなたの豊かないつくしみの思い出を熱心に語り、あなたの義を高らかに歌うでしょう。

「いつくしみ」は神の善き業のことです。「豊かな」は沢山の、多くの の意味です。「熱心に語り」は口からあふれ出てくる様を表します。聖霊が吐き出させるように自然な言葉のわき溢れるような姿のようです。それは、神の正しさは救いの恵みの教えの中で初めて理解されました。どんなにイスラエルの民は神の御むねに背いたことでしょうか。でも、悔い改めて神に立ち返りたいと願う者を主は拒みませんでした。

ウエストミンスターの小教理問答の冒頭の質問と答えの中に神の栄光に生きる者への、見事な教えが記されています。

問1人間の第一の目的は何ですか。
その答え 人間の第一の目的は、神に栄光を帰し、永遠に神を喜びとすることです。

問2どうしたら神に栄光を帰し、神をよろこびとすることができるかについて、わたしたちを導くために、神はどのような規範を与えておられますか。
その答え 神のことば(それは旧約と新約の聖書の言葉に含まれています)が、どうしたら神に栄光を帰し、神を喜びとするかについて、わたしたちを導く唯一の規範です。

神の栄光を讃える人生の道は聖書にしるされています。聖書を深く学び思いを深めたいと思います。