礼拝説教要旨(2014.08.24) 
少しばかりの力で
(ヨハネの黙示録 3:7〜13 柴田敏彦師)

 フィラデルフィアの「フィロ」は愛で、「アデルフォス」は友人です。「フィラデルフィア」は友愛、友情、兄弟愛となります。この町フィラデルフィアには、実在した兄弟ユーメネスとアッタルスの友情話しが残っており、それで町の名を「友愛」としたのです。友人同士の信頼とか忠誠とかを大事にしているこの町の気質とか気風を著していると言えましょう。
 当時の町の様子については、この地方を襲った二度の大地震の被害からまだ十分に回復し切っていない時とされています。また、西暦92年の飢饉対策に、ぶどう畑を半分つぶして穀物を植えよ、との皇帝の勅令が裏目に出て、十分な収穫を得られず、生きるための戦いの中にあったのは、フィラデルフィアの町の教会も同じでした。それに加えて、教会は信仰面での戦いを強いられていたのです。

1、フィラデルフィア教会向けの主のお姿は「聖なる方、真実なる方、ダビデの鍵を持つ方」と三段構えです。崇めるべき唯一の「聖なる方」、絶対に裏切ることのない信頼できる「真実なる方」と名乗られる主イエスです。このお姿は、「今まで歩んで来た信仰の道を、さらにわたしを信じて確信をもって全うしなさい」との励ましとなるものです。三つ目の「ダビデの鍵を持っている方」がフィラデルフィア教会への特別なものです。ダビデの家の鍵となれば王宮の鍵ですが、キリストの手にあるこの鍵は地上の王宮ではなく、御国の王宮の鍵となりましょう。鍵をお持ちのこのお方が私たちを入れて下さるのです。他の誰の手にもスペアーキーはありません。ですから、「彼が開くと誰も閉じる者がなく、彼が閉じると誰も開く者がない」と言われる絶対的な権限を主イエスがお持ちなのです。イエスの他に信ずべき者は地上になし、となるのです。
   
2、御国の鍵を示しつつ、主はフィラデルフィア教会に「わたしはあなたの行いを知っている」と告げます。群れの大牧者なるキリストが見守っていてくださるとの安心を主のお声に聞き取ることができましょう。さらに、「見よ。わたしは、誰も閉じることのできない門をあなたの前に開いておいた」と主は告げます。しかも、フィラデルフィアの教会を「あたなたには少しばかりの力があって」と主はご覧になっています。大きくも、強くもない。世に大きな影響力を持つ教会でもない。しかし、その少しばかりの力で「主のことばを守り」しっかりと信仰に立ち続けていたのです。「わたしの名を否まなかった」との一言が戦いの厳しさを物語っておりましょう。このフィラデルフィア教会に主イエスは「開いた門」をお見せになるのです。主が「開いておいたよ」といってくださるのです。

3、天の御国に確かに入っていくのは、こんなフィラデルフィアのような教会なのですね。大きさや、華々しい活動をしている教会とは限らない。御国の門が開いているのは「み言葉を守り、み名を否まない」群れに対してなのです。もしかすると、大勢が集う教会が、ふと天を見上げたら「閉じられた門が見える」ということだってあるでしょう。世と妥協して堕落した大きな教会であるよりは、小さくともちゃんと御国に通じている教会でありたいものです。この小さな群が滅ぼされ奪い取られることのないように、主はこの群れをしっかりと守り、門を開けて、この開いた御国の門をめざして歩め、と励ましていてくださる。しかし、この門は世の人に見えることはないのでしょうね。一五九七年二月五日、長崎の町や浜から見通しの良くきく西坂の丘で二十数名のキリシタンが張り付けにされました。四千人を超す群衆の中に、彼らのために御国の「開けていた門」に気づいた者がいたでしょうか。私たちは、信仰の目を持って、この門を見失うことのないように歩みたいとおもいます。

4、わずかな力で奮闘する教会の戦いは、決してその力に合わせて小さいなものとはいかなかったのです。その戦いが9節に記されます。その相手は依然としてユダヤ人たちです。ステパノの殉教からすでに60年、まだ迫害が続いていたのです。そのユダヤ人たちを主は「サタンの会衆に属する者」と呼び、ユダヤ人などとは自称であり「ウソ」だと言うのです。こう聞いて、フィラデルフィアの教会員の一人ひとり、ホッとし、またなるほど、と頷いたことでしょう。相手がサタンの手先ならば、戦いがあっても当然です。迫害も不思議なことではなかった。しかし、自分たちが会堂(シナゴグ)からは閉め出され、神の国になど入れぬ者として卑しめられていたのに、実際はその逆だったとは。ユダヤ教の会堂に残った方がサタンの会衆で、出された方が神の会衆だったのです。ヨハネの福音書8章47節には、ユダヤ人に向けての「神から出た者は、神のことばに聞き従います。ですから、あなた方が聞き従わないのは、あなたがたが神から出た者でないからです」との主のことばがあります。やはり、「主のみ言葉を守った」フィラデルフィアの教会こそが主のものだったのです。しかし、当の相手は認めようとしないのです。それで主は、「見よ。彼らをあなたの足もとに来てひれ伏させ、わたしがあなたを愛していることを知らせる」と言われます。迫害する側に回ったユダヤ人たちは自分勝手に主の恵みと愛のうちにいると思い込んでいました。実際はサタンの会衆と成り下がっていたのに。他方、彼らが迫害していた者たちこそが神の愛と恵みの中にいる者たちだったというのです。主は、御自身の力と権能をもって、そのことを明らかにすると宣言されるのです。

<結び> 見回せば、サタンの会衆と少しも変わらない、み言葉に聞き従わない人々に囲まれて生きています。み言葉に聞き従う私たちとの間に戦いがあって当然です。それがないとすると、それは私たちの弱さを知っておられるお方のご配慮かも知れませんね。もし、あるとしたら、主に愛されている民として、小さな力で戦うことを主に期待されていることを忘れないように。