礼拝説教要旨(2014.08.17) =敗戦後69回目の8月15日を迎えて=
身を汚すまいと心に定め
(ダニエル 1:1〜21)

 8月を迎える度、毎年、猛暑の中の6日、9日、15日を、どのような思いで過ごすのか、心の奥底を探られる思いがする。歴史上の過去の出来事は、実に様々、良いことも悪いことも、嬉しいことも悲しいことも、忘れてはならないことが溢れている。そんな中で、やはりかつての戦争の事実を覚えて、イエス・キリストを信じる私たちが、今、心すべき事柄に思いを馳せ、聖書に耳を傾けることは大事と思われる。この日本の国で何があったのか、その時、教会はどのように歩んだのか、その事実を振り返りつつ、聖書から学んでみたい。

1、今日は、もう8月の半ばを過ぎたので、広島と長崎の記念式典は既に終わり、15日の様々な式典や集会も終了している。例年は、カンカン照りの下で6日と9日を迎えるのと違って、今年は雨の中でのことであった。いつになく平和への思いが変化した状況下で、この国のこれからの歩みに、大いに関心を寄せるべきと、主ご自身から促しをいただいた、そんな思いがしている。毎年、修養会で、大会の社会委員会の担当による分科会があり、今年もその分科会に参加し、会場で、十年ほど前に出版された「宣教師が観た天皇制とキリスト教」という本を買い求め、それを読み返す機会を得たからである。かつて日本の国が歩んだ道、そして日本の教会が犯した過ち、それらを悔いて、また反省して歩み直そうとして、これまでの69年があったのではなかったのか。ところが、今、現実に起こっていること、これから先に起こりそうなこと、それらは、歴史の巻き戻しとなるのだろうか・・・。そんなことが気になって仕方がない。徒に心を騒がせたくはない。けれども、事態は、私たちが気づいている以上に、深刻さを増しているように思えて心が騒ぐ。(※その一番は、日本の教会が、かつて「神社参拝」を行った事実との関連である。)

2、ダニエル書1章1節、「ユダの王エホヤキムの治世の第三年に、バビロンの王ネブカデネザルがエルサレムに来て、これを包囲した」、この出来事は、紀元前605年のことである。多くの民が捕囚とされ、バビロンに連れて行かれた。異国の地に移されること、それは異教の地に移り住み、その生活習慣の中にあって、真の神を信じる信仰が試される、そんな生活が始まることであった。その時、バビロンの王は、イスラエルの民を、ただ虐げることではなく、有能な若者たちを選び、彼らに教育を施し、王に仕える者たちを育てようともした。その中に、ダニエル、ハナヌヤ、ミシャエル、アザルヤの若者たちがいた。彼らは、王に召し出されたことを受け止めながら、これから始まる生活の中で、何が問題となるかを直感した。「ダニエルは、王の食べるごちそうや王の飲むぶどう酒で身を汚すまいと心に定め、身を汚さないようにさせてくれ、と宦官の長に願った。」王が若者たちに与えてくれる食べ物は、何不自由のないものであった。けれども、それらが偶像の神々に捧げられたものであることは、容易に理解できたからである。ダニエルは、真の神を信じ、この方だけを礼拝する、その信仰に生きる者として、偶像礼拝との関わりを避けたかったのである。彼は丁重に願い出て、それが聞き入れられることになった。「神は宦官の長に、ダニエルを愛しいつくしむ心を与えられた。」(1〜9節)

3、ダニエル一人だけでなく、ハナヌヤ、ミシャエル、アザルヤも一緒に、十日間の試験期間を経て、何ら問題なく、彼らが願った野菜と水で、十分に養われることになった。(10〜13節)神ご自身が、生ける真の神だけに仕えることを心から願う者たちを、確実に守っておられた。彼らを豊かに養い、彼らに「知識と、あらゆる文学を悟る力と知恵を与えられた。」(14〜17節)ダニエルたちが気づいて願ったことは、何としても偶像礼拝を避けたいことであった。彼らは、十戒の第一戒と第二戒を、真実に、心の底から守りたいと願ったのである。それで正直に願い出た。その願いを聞かれたのは、神ご自身であり、神が宦官の長を動かし、ダニエルたちの願い通りにするようにされた。そして、神が彼らを守り、彼らの知識や知恵を増し加えて下さった。私たちは、このダニエルたちの直感を学び、彼らの信仰の姿に倣いたいのである。すなわち、私たちの住むこの日本の社会には、至る所に偶像礼拝が満ちていることを、直感して、それを避けることに真剣でありたい。この日本の国は、69年前の夏まで、神社は宗教ではないとの教えを広め、そこで頭を垂れることを人々に強いていた。教会さえもその考え方に屈服していた。今また、宗教行為と習俗との境目を曖昧にし、日本にいる限り当然のこととして、礼拝行為を強いられかねないことが起ころうとしている。私たちは、明確な意識をもって、「身を汚すまいと心に定め」ることを、はっきり導かれなければならない。

<結び> 7月の末から8月にかけて、日本中が「祭り」に沸きかえっている。この状況は、何を物語っているのだろうか。私たちは、しっかり、目を留める必要があるのではないか。この時期、私たちの国は、過去の歴史に向き合い、国として、また一人一人が個人として、如何に生きるのか、真剣に考えるべき時の筈である。ところが、猛烈な暑さに思考が止まり、それに輪をかけるように「祭り」が繰り広げられ、過去の事実を忘れ去るかのようである。しかも、事実をねじ曲げ、目先の利得や快楽に向かおうとしている。

 けれども、私たちは、神の前に、明らかな良心をもって進むべきである。偶像礼拝の惑わしは、巧妙に迫るに違いない。大切なことは、神を恐れ、神にのみ従うことであって、人にへつらうことではない。ダニエルたちは、その後も、神への忠誠を曲げることなく、神の守りの中で生き抜いている。彼らは、命を脅かされても、真の信仰に生き抜くことができた。私たちも、神の御手の中にある守りを信じて、この国で、イエス・キリストを信じる信仰を生き抜く者とならせていただきたい。