問90「御言葉が救いに有効となるには、御言葉をどのように読み、また聞かなければなりませんか。」 答「御言葉が救いに有効となるには、私たちは、勤勉、準備、祈祷をもってこれに傾聴し、信仰と愛をもって受けいれ、私たちの心のうちに蓄え、私たちの生活の中で実践しなければなりません。」 「御言葉」を読む時、神の「御霊」、すなわち「聖霊」が働いて、私たち人間の心は動かされ、「信仰」と「悔い改め」へと導かれ、「恵みによる救い」に入れられる。その時、「御言葉」をただ漫然と読むことは、避けなければならない。注意深く読むこと、聞くこと、それに従うことが求められている。
1、神が、「御言葉」を「恵みの手段」として用いられる時、聖霊の働きを通して、私たちの心の内に、「信仰」と「悔い改め」を起こしておられる。そのことによってのみ、自分からは神の元に立ち帰ろうとはしない、私たち罪ある者の心は開かれるのである。そのような「救いの恵み」が、私たちの心の中で実現し、その恵みの業が継続するため、私たちが心掛けるべきことは何なのか。問答90は、個人で聖書を読む時とともに、礼拝において説教を聞く態度について、聞く前の備え、聞く時の心掛け、そして、聞いた後のことに触れる。いずれの場合も、読みっぱなし、聞きっぱなしではなく、「御言葉」が、私たちの心に根ざすか否か、心に実を結ぶのか、その大切さを指摘する。「・・・ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。また、みことばを実行する人になりなさい。」(19〜22節)
2、「勤勉、準備、祈祷をもってこれに傾聴し」とは、問答89に続き、説教を聞く備え、また態度と理解できる。「勤勉」に、継続して、持続する熱心をもって、説教を聞くことである。一度や二度で、たちまち心が開かれるより、説教を勤勉に聞き続けることによって、必ず心が開かれるからである。そのために「準備」することは、外面的、物理的はもちろん、心が備えられることにある。「御言葉」を慕い求める心をもって、耳を傾けること、そのために「祈祷」があり、説教そのものに「傾聴」できるよう、祈って備えることが、殊の外大事となる。「聞く」ことは、ともすると、音を聞くに留まり、「聴く」ことは、中味である意味を聴き分けることに繋がる。そのように聴くには、「信仰と愛をもって受けいれる」ことが大切となり、語られる神に信頼する心、また態度が問われている。人の言葉には、しばしば不信感を抱くことがあっても、神の言葉の真実さは揺るがない。神への信仰と愛をもって傾聴するなら、私たちの心は、神の「御言葉」によって、満ち足りる幸いを味わうことになる。その幸いこそ、何ものにも代えられない。(詩篇1:1以下)
3、私たちにとっての課題は、そこから先に、どのように進むのかにある。神の「御言葉」を、「私たちの心のうちに蓄え、私たちの生活の中で実践しなければなりません」と、小教理問答は答えている。「みことばを聞いても行わない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。・・・」(23〜24節)ただ聞くだけは、余りにも空しいことである。「ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます。」(25節)「御言葉」を「心に蓄える」のは、ただ記憶することではない。覚えても、教えの通りに生きられない、また生きようとしないなら、その信仰は死んだものである。神の戒めを心に刻んで、その教えによって、心を照らされて生きているかどうか、私たちは、そのことが問われている。より具体的には、「生活の中で実践」するかどうか、そのことである。主イエスは、最後の晩餐の席で命じておられる。「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:34)この戒めを繰り返し語り、イエスご自身の愛は、罪の赦しを与える愛であることを、弟子たちに示しておられた。私たちも、この主イエス・キリストを信じ、キリストに従う者とされ、この戒めを確かに聞いた者である。神の愛に触れた者として、愛に生きることを導かれたいのである。生活の中で実践すべきは、私たちが受けた筈の愛であり、救いの恵みを喜ぶ者として生きることなのである。語る言葉や行いにおいてこそ。(26〜27節)
<結び> 「御言葉」が、私たちを救いに導き、神の民として生きるよう教える手段として、確実に、そして有効に働くために、神は聖霊を遣わして下さっている。私たちは、その聖霊の働きによって、「御言葉」を心に刻み、その教えに従って生きる者と整えられるのである。聖霊が働かないなら、私たちは、決して心を開くことはない。けれども、私たちが、自ら応答することの必要も、十分に理解しなければならない。神の働きかけに対して、自ら応答することを、神は待っておられるからである。(黙示録3:20)聖霊は、私たちが心を開くことにおいても、確かに働かれることを、感謝をもって受け入れること、その道をも、神は備えておられるのである。御言葉を読み、御言葉を聞き、それに応答すること、自ら心を決めて、教えに従って歩むことを、神は喜ばれる。信仰の一歩を踏み出すこと、その信仰の歩みの中で、教えに従って具体的に生きること、その生き方こそが、神の栄光を現す歩みとなる。自分の生まれながらの力や性質では、とても不可能なことが、聖霊に導かれる時、それが可能となる歩みは、真に神の民としての証しの日々となる。そのように歩ませていただきたい。
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