「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのため有益です。」(テモテ第二3:16) この聖書の言葉は、聖書が何であるか、そして、聖書は何のために有益であるかをはっきりと言い表す、聖書自身の証言である。私たちは、この言葉によって、聖書は、神の「御言葉」であり、また「教え」であり、「戒め」であると、心から信じるよう導かれている。その聖書が、神の「御言葉」として、どのように「恵みの手段」として働くのか、問答89が、そのことに触れる。 問89「御言葉は、どのようにして救いに有効とされますか。」 答「神の御霊が、御言葉を読むこと、特に説教を、罪人に罪を自覚させて回心させるため、また信仰によってきよめと慰めのうちに救いに至るまで建て上げるために、有効な手段とされます。」御言葉を読むことが、どのようにして有効な働きをするのか、その大切な秘訣が明かにされる。
1、詩篇19篇は、その1節より、「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。・・・」と語り、創造主である神が造られたこの世界、天地万物は、そのまま神の「栄光」を現し、「御手のわざ」を告げ知らせていると、高らかに賛美している。そして、全世界の人々が、自然の壮大さに対して、畏敬の念を当然のように抱くのも事実である。しかし、それで全ての人が、自然界そのものを見て、真の神に立ち帰るのか、その答は全く不確かである。初めの人アダムにおいて神に背いた全人類は、その背き罪のため、自分からは、決して神を求めることはなく、自然の光だけでは、心を動かされることがあっても、神について、また神の御業について、確かな知識を持つに至ることはないからである。神ご自身の側からの働きかけ、これなしに、人間が神に立ち帰るのは不可能である。恵みによる救いが、全くの神からの「賜物」であること、これは幾ら強調したとしても、強調し過ぎることはない。神は、私たちのために、「御言葉」を、すなわち「みおしえ」を告げて下さり、「あかし」、「戒め」、「仰せ」などとして、ご自身の「意志」、「みこころ」を明らかに示して下さったのである。それらが旧約聖書として書き残され、また新約聖書として、受け継がれている。(7節以下)私たち人間の心は、「御言葉」によってのみ、人間としての歩む道筋を、はっきりと照らされるのである。
2、そのように、聖書は神の「御言葉」として、神の「意志」の他、神の「御業」を私たちに知らせてくれる、大切な手段として備えられているのである。けれども、「手段」があれば、それが自動的に、また有効に働くわけではない。「御言葉」は「手段」であって、自動的に「救い」をもたらすことにはならない。「御言葉を読むこと」が、先ず大切なカギとなり、「神の御霊」が、「御言葉を読む」私たち人間の心を照らすことによって、私たち一人一人が、確かな救いへと進ませられる。目の前に「聖書」があって、「御言葉」があり、何が書かれているのか、ある程度知っていても、それによって、私たちが「救い」に入れられるわけではない。「神の御霊」が、「御言葉を読む」私たちの心に働きかけ、心を開かせ、神への信仰を起こさせ、そして「救い」は成る。「御霊」が「御言葉」を通して働き、私たちは「救い」へと導かれる。私たち人間が、自分の罪を認め、神の前に悔い改めようと心を動かされるのは、「御言葉」である聖書によって、罪を知らされることと、「御霊」の働きによって、自分の罪に気づかされることによる。「御霊」の働きなしに、私たち人間は、罪の悔い改めに進むことはない。それ程に罪深いのが人間である。(12節以下)
3、「御言葉を読むこと」に関して、「特に説教を」と言われるのは、日々、自ら進んで聖書を読むことの尊さに加えて、公の礼拝における「説教」、これが「御言葉」の「説き明かし」として、神が世々の教会に備えて下さったもの、との強調である。(※ルカ4:16-30、マタイ7:28-29)神は、礼拝における説教により、「御言葉」を読みつつ聞く人々、また聞きつつ読む人々の心に働きかけて下さる。「罪を自覚させて回心させるため、また信仰によってきよめと慰めのうちに救いに至るまで建て上げるため」である。私たちは、礼拝に集って、説教を聞く度に、自分自身の罪の自覚と、その自分のために十字架に架かって、贖いの死を遂げられたイエス・キリストを信じる信仰を、心新たにさせられる。そして、キリストを信じ、日々、神の聖さに向かって歩む思いを堅くされ、やがての救いの完成を望み見て、確かな慰めをいただいて、一層前進すること等々、神を信じる信仰に生きる思いを、再確認させていただくのである。人によって、罪の自覚や悔い改めが、より心を占めることがあり、また慰めや救いの完成を強く望むことがあるに違いない。私たちは、そのようにして、信仰が養われ、恵みよって強くされ、救いの完成の日を、心から待ち望むのである。私たちは、「神」と、神の「恵みの御言葉」に支えられ、歩み続けている。
<結び> 使徒パウロは、「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。・・・」と、若い伝道者テモテを励ましていた。(テモテ第二4:2)また「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です」と、自らの確信を述べている。(ローマ1:16)パウロが「みことば」と言う時、それは「福音」のことであり、十字架で死なれ、三日目によみがえったキリストこそ信ずべき方、この方を信じ、この方の教えに聞き従うようにと宣べ伝えていた。教会は、この「御言葉」を第一とし、「説教」を特に重んじて歩んでいる。プロテスタントの中で、私たち長老教会は、「説教」を尊ぶ教会の一つである。それは、聖霊なる神が、説教を通して、確実に、「御言葉」を聴衆に届かせて下さると確信するからである。必ず聖霊が働いて、人々に語って下さると信じて、語り続けている。
「主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ、主のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする。主の戒めは正しくて、人の心を喜ばせ、主の仰せはきよくて、人の目を明るくする。」(7〜8節)
「御言葉」を通して心を照らされ、「御言葉」によって心を正され、神を愛する者、人を愛する者、そして、神と人に仕える者として整えられ、心を低くさせられて歩ませていただきたいものである。私たちにとっての生きる指針として、これほどに確かなものは、他にないからである。(12〜14節)
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