問88「キリストがあがないの祝福を私たちに伝えるのに用いられる外的な手段とは、何ですか。」 答「キリストがあがないの祝福を私たちに伝えるのに用いられる外的な普通の手段とは、キリストの規定、特に御言葉、礼典、祈祷です。このすべてが、選民にとって救いのために有効とされます。」神がキリストを通して、私たちに与えて下さる救い恵みは、あくまでも「賜物」であり、私たち人間の知識や努力によるものではない。実際に、私たちが知識を蓄え、努力するとしても、それらは、神が定められた道筋に従って成すことであって、聖霊の働きに導かれてのことである。その道筋について、問答88は語っている。キリストへの信仰も命に至る悔い改めも、私たち人間の心の中で起こることであって、神が成して下さる不思議が、一体、どのような外的なものよって導かれるのか、そのことが明らかにされる。
1、世の中の多くの人は、「信仰」と聞いただけで、何か不思議なもの、目には見えないもので、近寄りがたいものと思うかもしれない。常識では計れないもの、極力、深入りしないのが身のため・・・と。けれども、「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです」と言われるように(ヘブル11:1)、まだ起こっていないことを信じ、目には見えないものを確信するからこそ、「信仰」の「信仰」たる意味がある。しかし、聖書が説く「信仰」は、人間の理性や知識を無視して働くものではない。聖霊が、私たち人間の心に働きかけ、私たちの心が動かされ、神へと立ち帰る時、その道筋を導く、極めて常識的で、客観的とも言える「外的な普通の手段」を、キリストが定めておられるのである。すなわち、主イエス・キリストは、復活された後、天に昇る前に、弟子たちに命じておられた。「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしたがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。・・・」(19〜20節)
2、主イエスは、「あらゆる国の人々を弟子としなさい」と命じると同時に、「父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け」なさいと、洗礼を授けることを命じておられた。最後の晩餐の席で、聖餐についての定めを命じておられた(マタイ26:26-29)のに続き、ここでは洗礼について語られたのである。更には、「わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい」と語られた。ご自身の「言葉」を、人々の心に届くよう教えることを命じられた。救い主キリストとして、ご自身の恵みが、洗礼を通して、また具体的な教えの言葉を通して、人々のものとなるようにと、自ら定められたのである。主ご自身が、救いの恵み、すなわち「あがないの祝福」が、確実に人々の心に届くよう、そのための手段を定め、道筋を用意されたのであった。この個所の記述にはないが、「祈祷」については、既に「こう祈りなさい」と「主の祈り」を教えておられ(マタイ6:9-13)、「御言葉」と「礼典」と「祈祷」の三つが、キリストご自身によって定められた。それらが「恵みの手段」、または「恵みの外的な手段」と言われるものである。聖霊は、これらの手段と共に働き、目には見えない祝福を、私たち人間に、確実に届かせて下さる。それ故に、私たちの信仰の喜びや確信は、ただ単に、感情的に喜ぶだけのものでなく、理性や知性においても喜ぶ、確かなものとなるのである。
3、世々の教会は、この「恵みの外的な手段」を尊び、これらを公の礼拝の中心として、受け伝えて今に至っている。私たち人間には、外的なものによって、より励まされ、また、より支えられたり、力づけられたり、多くの助けを受けることが多々ある。ところが、その外的なものによってだけでは、やがて何か物足りなさを感じ始め、その不平不満を、何か別のものによって満たそうとする、そんな思いを抱くようになる。そのようにして、キリストご自身が定めて下さったもの以外の何かを求め始める。御言葉としての聖書以外に、特別なしるしを求めたり、洗礼と聖餐以外の礼典を定めたり、祈りも、聖霊に導かれて祈る以上の、感情や情緒に訴える祈りへと突き進むことになる。教会の歴史の中で、異端とされる教えは、ほとんど皆、人間の側で何かを産み出し、それに頼ろうとすることから広がっている。しかし、私たちは、神がイエス・キリストを通して明らかにして下さったもの、恵みを伝え、祝福を受け継がせて下さるために備えて下さった、恵みの外的な手段を忠実に用いることを、宝物のように大切にして、神の恵みの内を歩むことをさせていただきたい。
<結び> 「御言葉」「礼典」「祈祷」のそれぞれについて、問答89以降、詳しく述べられる。私たちは、それらの恵みの手段に、主の日毎の公の礼拝において、必ず触れている。そのことを、今一度しっかりと覚えておきたい。「礼典」については、毎週ではないと反論があるかもしれない。その事実を踏まえたとしても、私たちは、個人個人でする祈りや御言葉による養い以上に、神が備えて下さる公の礼拝における導きが、どれだけ豊かな信仰を私たちに与えてくれるものであるか、決して見失わないようにしたい。「御言葉」は、「招詞」において、また「聖書交読」において告げられ、「説教」により、一層詳しく説き明かされる。神はそれらによって、神ご自身の教えを、私たちに語って下さっている。私たちは、肉体の耳と心の耳をもって、「御言葉」聞くことになる。「礼典」は、目で見る「御言葉」とも言われ、神の御業と教えを、肉の目で見つつ、心に刻むことになる。そして「祈祷」は、「主の祈り」と公の「祈り」と、一人一人が祈り心をもって礼拝に参加している間中、「賛美」によっても、聖霊の導きの元で導かれている。そのようにして、神の御教えを喜ぶ者となるよう、私たちは整えられる。「恵みの外的な手段」の一つ一つは、礼拝において豊かに働き、私たちの信仰生活に欠かすことのできないものとなる。そのような尊い手段が、神によって備えられていることを、私たちは、心から感謝したい。「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」と約束して下さったキリストを、この礼拝において、今朝もしっかり仰ぎ見て!!
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