礼拝説教要旨(2014.07.20) =ウェストミンスター小教理問答<87>
命に至る悔い改め
(使徒の働き 2:37〜42)

 問87「命に至る悔い改めとは、何ですか。」 答「命に至る悔い改めも、救いの恵みです。それによって罪人は、自分の罪をほんとうに自覚しキリストにある神のあわれみを理解して、自分の罪を嘆き憎みつつ、罪から神へと立ち帰り、新しい服従をはっきり目差し努力するようになるのです。」 神が、私たち人間の背きの罪を赦すため、「神の怒りとのろい」を免れるよう備えて下さった道、すなわち、滅びから命へと向かわせて下さる救いの道は、「イエス・キリストを信じ、命に至る悔い改めをすることです」と、問答85で語られていた。そして、「イエス・キリストへの信仰は、救いの恵みです」と、問答86で語って、更に、「命に至る悔い改めも、救いの恵みです」と、念には念を入れた答が続く。「信仰」も「命に至る悔い改め」も、神が私たち人間に与えて下さる「賜物」であること、この視点を強調している。聖書が教えている救いへの道は、神の恵みの御業であることを!

1、私たち人間に自由意志が与えられている事実、これは素晴らしいことである。何事も自由に考え、自らの行動を選び取ることができる。神は、そのように私たち人間をお造りになった。私たちには、良心の自由も与えられている。善と悪を弁え、良心の声に従って行動することができる。けれども、その判断や行動が、完全であるかどうかは、はなはだ心許ないのが現実である。造り主である神に背いた事実、聖さと正しさにおいて、ただ一人完全なお方である神に背を向けたことによって、私たちたち人間から、完全な正しさは失われたのである。そのため、自ら自由に考え、自由に行動していたとしても、神が求めておられる正しさを満たすこと、神の義を満たすことは、決してできないことを認めなければならない。キリストの十字架の身代わりの死は、そのために、決して欠かせないものである。私たちが、どんなに努力し、より正しく生きようとしても、キリストの贖いの死がなければ、罪ある者として、神のさばきを免れることはできないからである。「信仰」も「命に至る悔い改め」も、救いの恵みとして、神が、私たちに備えて下さるものなのである。

2、実際において、「信仰」と「命に至る悔い改め」は、一つのものとして働くと考えられる。「信仰と悔い改め」、または「悔い改めと信仰」と、どちらが先かは、明確には言えないほどに、この二つは密着している。すなわち、十字架のキリストを仰ぎ見ても、何ら心を動かされることのない人々がいる事実と、キリストを仰ぎ見て、自分の罪の大きさを自覚する人々のいる事実が、必ずあって、その違いは何によるのか・・・である。信仰と悔い改めは、神によって導かれることである。神が、私たちに罪を自覚させ、神に立ち帰ろうとの思いを起こさせて下さるのである。しかし、それは、神が、キリストへの信仰を与えて下さったので、罪を認めて神に立ち帰ろうと、私たちを促して下さるからである。「命に至る悔い改めも、救いの恵みです」とは、私たち自身の思いや努力があっても、それで「悔い改め」が生まれることはない、という意味である。あくまでも「救いの恵み」、神の恵みである。「それによって罪人は、自分の罪をほんとうに自覚しキリストにある神のおわれみと理解して、自分の罪を嘆き憎みつつ、罪から神へと立ち帰り、・・・」。 けれども、私たち人間が、神の恵みを正しく受け止め、理解するには、尚も難しさがある。

3、私たち人間は、生まれながらのままでは、心の底から罪を自覚することはないからである。少しは気づいても、「嘆き憎む」ことはほとんどない。従って、自分から、神に立ち帰ろうとはしない。「しない」と言うより、「できない」事実を、はっきり認めなければならない。神ご自身が、聖霊の力と働きによって、キリストに出会わせ、神の愛とあわれみに気づかせて下さることにより、私たちは初めて、自分の悲惨さに気づき、神に寄り頼む信仰へと進ませられるのである。そのようにして、私たちはキリストへの信仰と、命に至る悔い改めへと導かれる。従って、私たちがキリストを信じている事実、そして、命に至る悔い改めへと進ませていただいている事実、これらは、自分から出たことではなく、神から出たことであり、喜び感謝こそしても、誇ることでないのは、明白である。この信仰に立つ時に、私たちは、誇ることではなく、「新しい服従をはっきり目差し努力するようになる」ことが、本当の意味で導かれる。すなわち、いよいよ心を低くして、イエス・キリストご自身に倣う歩みが、必ずや導かれるのである。それこそ私たちが信じて、目差すことである。

<結び> 主イエスの十字架の死と、死からの復活の後、50日が過ぎた時、弟子たちの上に、聖霊が目に見えるしるしを伴って降った。弟子たちは、それぞれ、力を受けて、いろいろな国の言葉で、「神の大きなみわざ」を語り始めた。ペテロは弟子たちを代表して、イエスの十字架の死と、死からのよみがえりの出来事を証言した。ユダヤの人々が、こぞって死に追いやったイエスを、神がよみがえらされたこと、そのイエスが約束の聖霊を遣わし、今、弟子たちは証言していると、力強く語ったので、人々は心を刺された。あのイエスがよみがえって生きておられると、そのことに気づいた人々は、ペテロの勧めに従って、罪を悔い改めるよう導かれた。彼らは、命に至る悔い改めへと導かれ、神を信じ、イエスをキリストと信じて従う、新しい服従へと踏み出した。「その日、三千人ほどが弟子に加えられた」という、目覚ましい出来事が起こったのである。(37〜42節)

 私たち一人一人の歩みにおいては、いつもいつも、何か劇的なことが起こるわけではない。人によって、劇的な回心の経験があるかもしれず、また特別には何もないかもしれない。大事なことは、神が、「救いの恵み」として、私たちを信仰に、そして、命に至る悔い改めに導いて下さるという事実である。頑なであった筈の私たちが、悔い改めと信仰に導かれたのは、神の御業と言う他はない。そして、私たちは、新しい服従を神にささげ、精一杯、神に喜ばれる者として生きようと、ささやかではあっても、真剣な決心へ、必ず導かれるのである。私たちは、この決心をもって、日々を歩むよう期待されている。神の前に、心して生きる一人一人の存在、それがどれだけ尊いものか、そのことを覚えたい。実際に、私たちの一人一人は、目立たないかもしれない。特別な功績もないに違いない。けれども、神の前にあって、曇りのない良心をもって生きること、これに優る幸いはないことを、信じて歩ませていただきたい。神が私たち一人一人を、神の民、キリストの弟子としていて下さるからである。