礼拝説教要旨(2014.07.13) =ウェストミンスター小教理問答<86>
キリストへの信仰 
(ペテロ第一 1:18〜21)

 聖書は、「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」(ローマ3:23) と、神に背いた人間の罪を語る。この罪の深刻さは、「この世でもまた来るべき世でも」、特に「来るべき世でも」神の怒りとのろいに相当することにある。全ての人が、神の裁きの前に立たされ、そこで神の怒りとのろいを免れる人は、一人としていないからである。けれども、神は、イエス・キリストを信じ、罪を悔い改める人を、神の怒りとのろいから救い出す道を備えられた。神は私たち人間が、自分の罪を認めて悔い改めるのを、忍耐して待ち続けておられ、その悔い改めが、真実なものとなるように、イエス・キリストを遣わしておられる。キリストを信じる信仰によって、私たち罪ある人間は、神の前に、命に至る悔い改めが導かれるのである。

1、問答85が語るのは、私たちが、キリストを信じ、命に至る悔い改めをするよう、神が求めておられるということである。そうするため、神は、「外的手段」を備えて下さり、私たちが、それらを忠実に用いるよう勧められている。その「外的手段」とは、問答88以下で触れられる、「御言葉」と「礼典」、そして、「祈祷」の三つである。神は、それらを用いて、イエス・キリストを信じる信仰と、命に至る悔い改めに、私たちを導いて下さる。けれども、私たち人間が、何かを信じるという時、果たして、本当の意味で信じることができるのか、また真実な悔い改めができるのだろうか。問答86と87は、その問に答える。 問86「イエス・キリストへの信仰とは、何ですか。」 答「イエス・キリストへの信仰は、救いの恵みです。それによって私たちは、救いのために、福音において提供されているままにキリストのみを受けいれ、彼にのみ寄り頼むのです。」一見、「イエス・キリストへの信仰」の中味を問うようでいて、それは「救いの恵みです」と言い切り、「キリストへの信仰」は、恵みとして与えられるもの、との側面を強調している。この理解こそ、恵みにより、信仰によって与えられる救いの、大切な一面である。信仰は、あくまでも「救いの恵み」であり、神からの「賜物」であって、私たちが自分の知恵や力で、信仰を獲得し、これを強め、また深めたりはできないものである。

2、もちろん、「イエス・キリストへの信仰」とは、イエスが神の御子キリストであると信じる信仰である。キリストは、私たちを救うために人となり、十字架で罪の身代わりとなられ、三日目によみがえり、天に昇り、真の預言者、祭司、王として、今も生きておられ、天から私たちを見守って下さっていると、私たちは信じている。この信仰の内容が、決して自己流のもの、自分に都合の良いところだけのものにならないこと、それが大事なことである。そのことについて、「福音において提供されているままにキリストのみを受けいれ」ることを、常に心しなければならない。キリストを信じると言いながら、キリスト以外のものを信じる過ちを、教会自身が犯した歴史がある。何をどのように信じるのが「キリストへの信仰」であるかは、問答21〜28で触れられている。十字架で死なれ、三日目によみがえり、天に昇り、今も生きておられるキリストを救い主と信じること、そのキリストに代わって、今は、聖霊なる神が、私たちの内に住み、どこにあっても共におられると信じること、そうした信仰は、神からの賜物として与えられているというのが、「救いの恵み」と言われる意味である。(18〜21節、※エペソ2:8)

3、小教理問答の答は、もう一言「彼にのみ寄り頼むのです」と、念押しをする。神に背を向けた人間は、神なしで生きて行けると、信じて止まないものである。「信仰」など要らないとする反面、もし自分に必要なら、これを獲得するためには、全精力を傾けようとし始める。その努力は尊く、その能力は賞賛に価する。けれども、キリストと並べて何ものかに頼ることは、増して自分の力や能力を頼ることは、決してあってはならないことである。教会の歴史において、キリストを信じて救いの信仰に導かれながら、徐々にそこから離れてしまったことは、多くの実例が示す通りである。救いのため、行いは必要でないことを知って歩み始めながら、ガラテヤの教会には、行いに頼る教えが広がった。また、コリントの教会では、互いの信仰の強さや弱さ巡って、争いが起こった。宗教改革の時代、この世での繁栄が教会を歪めていた。聖書以外の教えが忍び込んで、キリストのみに頼ることが薄れたのである。偶像の神々に走らずとも、天使や聖人に頼ることには、無頓着になって行った。今日の私たちは、何を大事にしているだろうか。

<結び> 神ご自身が、神に背いて罪に堕ちた私たちを、滅びから命に救って下さるのである。その救いに、私たちは、イエスをキリストと信じる信仰によって入れられている。神の怒りとのろいを免れさせるため、神が、イエス・キリストを遣わし、十字架の死を遂げさせ、罪の代価を支払ってまで、確かな救いを備え、キリストを信じる者に、救いを恵みとして与えて下さるのである。それが、「イエス・キリストへの信仰は、救いの恵みです」と言い切る答の意味である。この信仰を見失うことのないよう、心して歩みたい。「御言葉」と「礼典」と「祈祷」という、三つの外的手段を用いること、しかも忠実に用いることは、私たちが思う以上に大切である。個人的なこととして捉えるより、教会としての、公的な視点が大事である。神は、教会を立て、そこで主の日毎に公的な礼拝をささげるよう導いて来られた。そこで「御言葉」が説き明かされ、「礼典」が行われ、「祈祷」がささげられて来た。その礼拝に、自分自身の身を置くこと、それは自分自身をささげることに通じる、大切な礼拝そのものである。私たちは、公的な礼拝によって、確かに信仰が養われ、神の民として整えられている。私たちの「キリストへの信仰」は、確実に養われ、育まれる。そして、やがて天の御国へと迎えられる。その時まで、この地上にあって、神の民、またキリストの弟子としての歩みが期待されている。私たちは、救いの恵みを喜び、感謝して、この地上の日々を歩む者でありたい。