礼拝説教要旨(2014.07.06) =ウェストミンスター小教理問答<83><84><85>=宣教礼拝=
神の怒りとのろいを免れる人
(イザヤ 55:6〜13)

 神の戒めを完全に守れる人は、一人もいないこと、かえって「日ごとに思いと言葉と行ないにおいて破っています」との指摘、これが私たち人間の現実である。神が定められ、神が人に求めておられる正しさの基準を、私たちは満たすことができず、日々これを破っている。その律法違反は、神に対する背きであって、神の前での、人間の「罪」そのものである。その「罪」についての問答が以下に続く。問83「律法違反の罪は、みな同じ重さですか。」 答「ある罪は、それ自体で、またいくつかの加重によって、他の罪よりも神の目には重罪です。」 問84「罪は、みな、何に相当しますか。」 答「罪は、みな、この世でも来るべき世でも、神の怒りとのろいに相当します。」 神の律法に反すること、神の戒めが求めていることを行わず、それに反することを行うことが「罪」であるが、その「罪」の重さには、違いがあることを告げ、「罪」はみな、神の怒りとのろいに相当する、と厳しく断言する。

1、全ての人が、神の前に罪ありとされ、神の怒りとのろいに相当する、というのが、この問答83、84が指摘するところである。律法に違反することが、神の目に全て罪であるとしても、私たち人間の思いの中では、軽い罪、重い罪、見逃してもらえる罪もあるのでは・・・と、そんな考えが浮かぶ。事実、隣人の家のものを欲しがっても、盗むことはなかった、隣人に激しく腹を立てても、殺すまではしなかった・・・と、安堵するのも事実ではないか。けれども、全て、神の目の前には「罪」である。その上で、罪を犯す、その人自身が、罪に罪を重ねたり、自分の立場や責任上、より重い罪に問われる事実を、はっきり認めなければならない。神は、どんな罪も、決して見過ごすことはなさらない。かえって、罪を罪と知りながら繰り返すなら、その人は厳しく裁かれる。また、同じ盗みでも、盗みに至る事情を、神はご存知であり、分別のあるおとなと小さな子どもでは、責任の問われ方が違うのは当然である。神は、罪を犯す人に対して、その人の全てをご存知の上で、全く正しく、重罪であるか否かを判断されるのである。(※これは通常の裁判でも考慮されている。)

2、更に、神は、私たちは人間に対して、罪の代価を求めておられる。罪は、たとえ神の目に全て同じではないとしても、どんな罪も、等しく「神の怒りとのろいに相当」する。しかも「この世でも来るべき世でも」。「来るべき世でも」が、この世の裁判と違うところである。(ヘブル9:27)神の怒りは、神ご自身の聖さのゆえである。聖く正しくあられるので、罪や汚れを憎み、これを退けようとなさり、神の怒りとのろいを裁きとして下される。この世での神の怒りとのろいは、人の手を介して下される場合と、直接的なことがある。そして、罪を犯した人自身が、必ずしも気づかないで過ぎることがある。けれども、神の前に心を研ぎ澄まし、また心の耳を開いて歩む人は、様々な試練の中にあって、神の前に、心を正す導きを見出すことができる。神ご自身は、常に、大いなる忍耐をもって、私たちが神に立ち返って、罪を認め、悔い改めるのを待っておられる。その忍耐は底なしである。しかし、その忍耐は、私たち人間がこの世にある限りであって、来るべき世での「神の怒りとのろい」を、私たちは覚えなければならない。罪に対する永遠の裁きと、その刑罰は、必ず下される。この地上で、どんなに悪が栄え、また刑罰を免れていても、来るべき世で、神は必ず悪を裁き、罪に刑罰を科せられるからである。(マタイ25:31-46)

3、けれども、神は、私たち人間を神の怒りとのろいの中に閉じ込めるのではなく、免れる道を備えておられる。問85「罪のため私たちに当然な神の怒りとのろいとを免れるために、神は、私たちに何を求めておられますか。」答「罪のため私たちに当然な神の怒りとのろいとを免れるために、神が私たちに求めておられる事は、キリストがあがないの祝福を私たちに伝えるために用いられるすべての外的手段を、忠実に用いて、イエス・キリストを信じ、命に至る悔い改めをすることです。」 戒めを完全には守り得ない私たち人間のため、神は、イエス・キリストを信じる信仰によって、神の前に義とされ、罪を赦される道を備えて下さった。神が求めておられる戒めへの服従を貫いて、人間として本当の意味で正しく生きる生涯を、主イエスただ一人が生き抜いて、十字架で死なれたのである。全ての人の罪の刑罰としての死を、イエス・キリストは身代わりとなって死なれた。このキリストを信じて、命に至る悔い改めをすること、この信仰へと、神は私たち一人一人を招いておられる。「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。・・・」と。(6節以下、※ローマ3:23-26)

<結び> 旧約聖書の時代も、今も、神は、同じように私たちを招いておられる。大事なこと、肝心要のこと、それは、神の前に罪を認め、神に立ち返ることである。「悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。」(7節)私たちは、この罪の赦しの福音を、先ず自ら信じ、この福音を携え、生かされている限り、福音の証しに生きることを導かれたいと願う。時代は益々混沌とし、福音が曲げられ、罪の赦しの福音より、この世で富み栄えることを勧める教えを、教会が率先して発信しているのかと、危惧を覚える。罪を指摘し、神の怒りとのろいを説くより、もっと神の祝福を説くべきと言われ、心騒ぐことがある。しかし、それでも罪を説き、神の怒りとのろいを知るように、その怒りとのろいを免れる道のあることを説いて、真心からの悔い改めと信仰が導かれることを説き続ける、そのような福音宣教の業のため、一人一人、そして、教会全体が用いられるようにと祈りたい。(※ローマ6:23、ルカ24:46-48))